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結局、レポートは月曜日の正午までに仕上がらなかった。 それどころか狭霧は午前中に行われる二つの講義を後期に入って初めて欠席する羽目になった。 「一日くらい休めないのかよ」 「必修の講義があるんだ。それには絶対に出なきゃ」 交通量の多い国道から緑豊かな脇道に入り、広々とした運動公園に添って歩いていくと、間もなくして向かい側に狭霧の通う私大が見えてくる。 ここ数年の間に都市部から郊外へ移設したこともあり、建物はどれも真新しく、全面がガラス張りである学生ホールは特に目を引くデザイン的な外観だった。 なだらかな中央階段は本館へ連なっており、両脇に広がる芝生は広葉樹の並木に囲まれている、用務員によってそこは常に清浄に保たれていた。 狭霧は階段の踊り場に達すると進行方向を変え、昼時の学生ホールを目指した。 「図書館とか興味ないだろうから、ここにいたらいい」 両開きの扉を開くと人いきれの熱気に包まれた。 開放感ある高い天井にまで隙間なく満ちているような騒がしさ。 ソファや丸テーブルに落ち着いている学生よりも立ち上がっている者の方が多い。 昼休み終了が迫り、移動を開始しているのだろう、狭霧達と入れ替わりに出ていく者も多くいた。 狭霧は人通りの激しい出入り口から離れると天井を見上げている楓に向かい直った。 「さっき食べたばかりだから空かない。お前、俺がそんなに飢えてるとでも思ってるのか」 他人が聞いていたとしても別段気に留めない台詞だったが狭霧は違った。 彼は目を伏せて上気した頬を片手で隠し、下唇を噛んだ。 そういう意味合いでしか受け取れない状況に狭霧を追い込んだ張本人は喉の奥で微かに笑った。 「欲求不満に思われても仕方ないか」 近くにいた学生の注目を浴びる。 やはり連れてくるべきではなかったと狭霧は悔やんだ。 「講義が始まるからもう行く」 顔も見ないで投げやりに告げると狭霧はその場から直ちに立ち去ろうとした。 楓の手がそうはさせなかった。 「講義が終わったら図書館でやるか」 狭霧を引き寄せた楓は竦んだ首に腕を巻きつけ、耳元で息を吹き込むようにして揶揄めいた言葉を紡いだ。 狭霧は一瞬の金縛りに陥り、週末の回想が頭をよぎって陶然とした立ちくらみに襲われた。 楓は彼の意識が鮮明になるのを見計らって振り解かれる前にタイミングよく狭霧を手放した。 それは数秒にも満たない束の間の出来事で。 歯痒そうに唇を噛んだ狭霧は憎々しげに楓を一瞥するでもなく無言でホールを後にした。 「狭霧!」 本館へと続く渡り廊下を突き進んでいた狭霧は、足を止め、人波を練って通路を駆けてくる顔見知りの学生を目にした。 「今の、大学の人じゃないよね?」 短髪の彼は眉間に寄せられた縦皺と共に不出来な笑みを浮かべ、黙然と歩き出した狭霧に問いかけた。 「あんなに目立つ人、今まで見かけたことない」 「昔の知り合いだよ、牧村(まきむら)」 楓から離れ、何とか冷静な表情と口調を取り戻した狭霧は端的な回答を述べた。 「遠方から来ていて大学には暇潰しに来ただけ。その内、飽きたら帰ると思う」 何気なく吐き出した自分の言葉に狭霧は目を細めた。 隣にいる牧村繁雄(まきむらしげお)すら気づかなかった、それはほんの一瞬の違和感だった。 そう、それは十分にあり得る。 あの楓のことだ、講義が終わる頃にはもう遠くへ去っているかもしれない。 本館の三階に上り、目的の教室に着いた狭霧は窓際に当たる長机の端に腰を下ろした。 必修の講義であり、学生の人数が多い。 久々に楓を不在とする環境に一息ついた狭霧は彼について冷静に考えてみた。 隣に座る牧村の視線が横顔に突き刺さるのは毎度のことだ、支障は来たさない、今更注意するまでもなかった。 大学に進学後、虚ろな美貌に見せられて狭霧に近づいた人間はこれまで多数いた。 誰もが淡泊に応じられて次から次に離れていき、牧村だけが健気に狭霧のそばにい続けた。 自分への想いに対する返事は態度で示しているつもりだし、本人もいい加減悟っているはずだ。 それでも一緒にいたがる牧村を、狭霧は、冷ややかに突き離そうとはせず彼の好きにさせていた。

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