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「狭霧、食べないの?」 講義が終わってカフェテリアに移動し、食券も買わずにテーブルでぼんやりしている狭霧に牧村は問いかけた。 「俺は後で買うから。牧村は先に買ってきたらいい」 「うん。大丈夫?」 「ああ。大丈夫だから」 牧村は狭霧を心配そうに顧みつつカウンターへと向かった。 途中、顔見知りの学生に声をかけられて慌ててそちらに向き直る。 カウンターに到着するまでの間、何度かそんなことが繰り返された。 牧村は男女問わず誰からも親しまれていた。 バスケのサークルに所属していて、どの学年にも知り合いがいる。 身長は180センチ近いが猫背なので実際より低く見える、草食動物を思わせる温和な性格だった。 彼が同じ国文科の狭霧の隣に腰を据えるようになったのは去年の夏辺りからだ。 一途な熱情はひたすら狭霧にのみ注がれていた。 他の学生に紛れつつある牧村の背中から目線を外した狭霧は、学生ホールと同様、ガラス張りのカフェテリアの一角で頬杖を突き、物憂げに目を瞑りかけた。 「君が狭霧君?」 視界の端にテーブルに置かれた男の片手が写った。 クラシカルな腕時計が袖口から覗いている。 聞き覚えのない声音に狭霧は警戒の色をその血の気のない顔に浮かべ、頭上を見やった。 「ああ、やっぱりそうだよね。聞き間違いじゃなかった」 正午手前の混雑し始めたカフェテリアの一角で男は薄く笑った。 やはり男に全く見覚えがない狭霧は怪訝そうに眉根を寄せる。 スーツ姿の彼は思い思いに着崩した服装でいる学生たちの中で妙に浮いていた。 髪は綺麗にセットされている。 シンプルなブラックフレームの眼鏡をかけ、狭霧にとって不慣れな香水の香りを控え目に纏っていた。 就職活動中の学生というわけでもなさそうだ。 「どなたでしょうか」 狭霧はそう問うしかなかった。 問われた男は「失礼」と、さも気取った口調で言うと名刺を差し出してきた。 会社名と部署名、そして名前が並んでいる。 やはりどれも初めて目にするものばかりであり、狭霧はもう一度男に問いかけようとした。 「楓昌人の知り合いだよ」 狭霧は目を見開いた。 男は薄ら笑いを絶やさずにテーブルに片手を突いたまま狭霧の顔を無遠慮に覗き込んできた。 「ふぅん、そっか、確かに、ね……そうかもしれない」 今度は思わせぶりな口調で呟くと曲げていた背中を垂直に伸ばして狭霧を見下ろした。 「狭霧君、今日は何時に講義終わるの?」 つい正直に狭霧が答える。 男はその時間にこの場所で待っているからと言い残し、狭霧の返事も待たずに速やかな足取りでカフェテリアから去って行った。 丁度入れ代わりにテーブルへ戻ってきた牧村は定食の乗ったトレイを下ろすと狭霧に尋ねた。 「今の、狭霧のお兄さん?」 突然の出来事に呆然となっていた狭霧は牧村の問いかけに益々混乱しそうになった。 名刺に書かれた男の名前、笹倉遼一郎(ささくらりょういちろう)を、何度も視線でなぞった……。 午後の講義を終えてカフェテリアに行ってみると昼時に狭霧が座っていたテーブルに笹倉はいた。 狭霧は気乗りしないものの、手元の携帯電話に集中している笹倉の元へ足を進めた。 テーブルの前まで近づいたところで笹倉は顔を上げた。 「来てくれないかと思った」 携帯電話をスーツのポケットに仕舞うと笹倉は薄笑いを浮かべて淡々と言った。 「すみません、講義が長引いてしまって」 「別にいいよ、どうぞ座って」 一瞬躊躇した狭霧は非常に鈍い動作で笹倉の向かい側に腰を下ろした。 もうじき五時に差し掛かろうとしているカフェテリアに学生の姿は疎らだった。 居心地のよい静けさに保たれ、昼寝をしている学生が、奥の厨房からは食器を洗う音がしていた。 笹倉は稲荷神社の狐を彷彿とさせる薄ら笑いを顔に張りつかせたまま両腕を組んだ。 「そんなに警戒しないでくれる? 喧嘩しに来たわけじゃないから。狭霧君とね、話がしたかったんだ」 この人と俺の顔は似ているだろうか。 牧村の問いかけを思い出した狭霧は無視できない不快感に襲われた。 俺はこんな笑い方をした覚えはない……。

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