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「大丈夫か?」
頭上で楓の声がし、ベッドに横になっていた狭霧は「大丈夫」と、短く一言返した。
楓は店の前でタクシーを拾うと一緒に乗り込み、アパートの階段を上って三階の部屋のこのベッドまで狭霧を運んでくれた。
「水はもういいか」
枕に片頬を擦らせて狭霧は頷いた。
俄かに振動が伝わり、そっと寝返りを打つと、ベッドに浅く腰掛けた楓の背中が狭霧の視界に広がった。
「お前、あいつに何か言われたのか」
「え……」
「大学で、あのホールで……外から見えたんだ、お前の顔」
「……別に何も言われてない」
まだ頭痛はするが、ベッドの中にいると大分落ち着いた。
酔いも引いている。
明日は午前中の講義もなく、まともな睡眠時間が得られるはずだった。
しかし心は安堵できずにいた。
馬鹿馬鹿しいと思うが、どうしようもなかった。
「中学の頃、思い出した」
脈絡のない楓の発言に狭霧は閉じかけていた目を見開いた。
「お前、教師から乱暴されかけただろ」
「……」
「あの前、図書室で、お前とあの教師が話してるところを見てたんだ」
狭霧は思いも寄らない告白に驚いて楓の背中を呆然と見つめた。
両膝に肘を載せて前屈みになった楓は僅かに笑った。
「声は聞こえなかったけどな、表情で、内容は何となくわかった……ガラス越しの方がお前の感情はわかりやすいのかもしれないな」
中庭から見ていたのか。
だから、あのとき、実験室の近くにいたのか。
狭霧はもう一度寝返りを打って壁の方を向き、毛布を掴む手に力を込めた。
「もう寝るから一人にしてほしい」
気紛れな優しさなんかいらない。
それに縋っても無意味だから。
いずれ君は俺を放棄して去っていく。
「わかった」
着込んだままでいたジャケットのポケットに片手を突っ込み、楓は、狭霧の部屋から出て行った。
彼がいなくなると周囲の何気ない物音が狭霧の鼓膜を脅かし始めた。
天井の照明さえ鬱陶しく思えてきて、億劫そうに起き上がると部屋の明かりを消し、力なくベッドに倒れ込んだ。
これから笹倉さんと会うのだろうか。
もしかしたら二人は一緒のホテルに泊まっているのかもしれない。
下世話な想像に蝕まれていくのを止められず、狭霧は、愚かで虚しい自分の思考回路を呪う。
「もう嫌だ、こんなの」
店を出てここに辿り着くまで楓と密着していた場所に仄かな熱が溜まっていた。
タバコの匂いも染みついて、煙たいと、狭霧は思った。
こんなことを考える自分の何もかもが煙たい。
彼ごと、灰になって消えてしまえばいい。
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