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常夜灯の灯火が際立ち始める時間帯。 星の光も藍色の空に煌めいて澄み渡った夜空を美しく飾っている。 過ぎ行く車のヘッドライトに一瞬目を瞑り、狭霧は、アパート前の自販機に寄りかかる楓の隣で足を止めた。 「どれくらい待ってたんだ……?」 ファーフードを被り、ジャケットのポケットに両手を隠していた楓は「さぁな」と答えた。 足元にある空き缶の周りには少量の灰が零れている。 狭霧は疲れた眼差しでそれを見下ろして、拳を握り、心に決めた。 「楓」 一番そばにある外灯の光の輪の中で狭霧は楓に告げた。 「俺はもうお前のためにドアを開けたりしない」 前方を向いていた楓は横に建つ狭霧の方へ顔を傾けた。 「もう自由にしてほしい」 いつか棄てられるのなら、それならいっそ、自分から離れた方がいい。 もう一度傷つけられたら、放棄を繰り返されたら、憎しみに溺れて二度と浮上できなくなりそうで……。 「耐えられないんだ、もう」 「そうか」 俯いていた狭霧は顔を上げる。 密やかに笑んだ楓はタバコを一本取り出そうとしているところだった。 「忘れたかったんだな、お前は」 ライターの火が弱々しげに点る。 楓は何も言わずに煙草を燻らせ、狭霧は、アパートへ一人帰った。 チャイムが鳴った。 ベッドの上で長い間放心していた狭霧は億劫そうに起き上がって時計を見た。 八時過ぎ。 楓と別れてもう二時間近く経過したのだと、やり場のない重たげな痛みを胸に覚えた。 玄関に出、覗き穴の向こうに牧村を見、狭霧はロックを外した。 「……心配で……」 スポーツウェアの裾を両手で握り締めていた牧村は斜め下に向かって声を発した。 「講義、来なかったから。携帯も繋がらないし」 「大学には戻ったけれど出席する気になれなくて、図書館にいた」 「笹倉さんに何かされたの?」 三度目の来訪になる牧村は部屋に通されても寛ぐのに気が引けて突っ立ったまま狭霧に尋ねた。 ベッドに腰を下ろした狭霧は質問の矛先に眉を顰め、彼に聞き返した。 「されるって、何を?」 苛立った物言いになった。 牧村はすぐさま「ごめん」と謝り、謝られた狭霧は額に添えていた手で顔を覆い、低い吐息を連ねた。 柔らかな薄茶色の髪を強めに掴んで些細な痛みを生じさせる。 胸の痛みを誤魔化すために、紛らわすために、狭霧は肌身に爪まで立てた。 これでよかったはずなのに心がどんどん深い暗闇に沈んでいく。 彼と共に灰にしてしまいたい思い出が止め処なく瞼の裏に打ち寄せ、積み重なって、徒労になるだけの残酷な回想に引き摺られる。 「狭霧、あの人は? ここにいないの?」 狭霧は「いない」と即答した。 「もういない。でも、これでいい。俺には関係ない」 「狭霧?」 「いずれ突き放されるのなら自分から離れた方がマシだから」 そのはずだった。 それがこんなにも息苦しくなるなんて思ってもみなかった。 「……狭霧」 肩に手を置かれて、俯いていた狭霧は力のない目線を頭上にやった。 距離を狭めた牧村がいつになく熱望の眼差しで自分を見下ろしている。 掌の熱がシャツ越しに滲んで狭霧の肌に伝わった。 「牧村」 凛とした声で名を呼ばれて牧村の指先が震えた。 狭霧は真摯に彼と視線を重ねて肩に置かれた手はそのままに言った。 「駄目だ、牧村」 真っ直ぐ見つめられて言われた拒否の言葉に、牧村は、どうしようもなさそうに小さく笑って手を離した。 鈍い動作で隣に腰かけると、そっと息をつく。 「やっぱり狭霧とは一歩距離をおいて接することしかできない」 隣室の住人が帰ってきたらしくドアの開閉音が響いた。 車のクラクションがアパート近くで短く鳴らされる。 「俺、何だろう、狭霧を偶像として見ていて、そういうことはタブーに思えて……俺自身、セックスとか苦手だし」 何とも頼りない小声と共に牧村自らが顔を赤くする。 自分への感情を明確な言葉で語られるのは初めてで狭霧は黙って隣で聞いていた。 小学生の頃、自分の母親が父親じゃない男とセックスしてるところ、見ちゃって。 それが影響しているんだと思う。 相手を汚しているみたいな気になって、射精しても、心は冷えていくばっかりで、誰とも長続きしなかった。 「でも、みんなのこと、好きだった。狭霧のことも本当に好きだった」 過去形で狭霧への思いを告白した牧村は「だけどね」と、狭霧の横顔を見て続けた。 「あの人が狭霧を見る目は鋭くてちょっと怖かったけれど、俺には持ち得ないものを持ってるような気がした」 「……?」 牧村は前へ向き直ると素直に楓の眼差しから受けた印象を述べた。 「あの人、多分、誰よりも狭霧のこと求めてる」 まさか。 俺は二度も棄てられた。 気紛れに弄ばれて。 何の言葉もなしに棄てられた。 「そんなことありえない」 「狭霧は、あの人と離れて後悔しない?」 すぐ隣で周章している狭霧の混乱を痛いほど感じながら、牧村は、拳一つ分の隔たりを保って彼に問いかけた。 「本当のこと伝えなくていいの?」 本当のこと。 狭霧は痛みに軋む胸を我知らず押さえた。 二度も棄てられて気紛れをあれだけ憎んだのは楓が特別だったから。 彼以外の人間には見せていた力ずくの抵抗を試みなかったのは心のどこかで許していたから。 楓が好きだから。

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