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狭霧は声に出して彼の名を呼んだ。 フードを目深に被ってベンチに座っていた楓は数メートル先までやってきた狭霧の方へ顔を傾けるでもなく、じっとしていた。 「びっくりしたよ、狭霧君」 楓の真正面に建つ笹倉が開口した。 電話では普段よりも冷たい口調だったが、彼はお馴染みの薄笑いを浮かべて狭霧と向かい合った。 「いきなり牧村君から電話を代わったと思ったら、昌人と話したい、なんて」 笹倉が手入れの行き届いた革靴の裏を砂地に何度か擦りつけて乾いた音を静寂に響かせた。 「そうです。俺は楓に言いたいことがあって来たんだ」 狭霧は途中からフードで目元を隠したままの楓に向かって声をかけた。 深々と背もたれに身を預けてポケットに両手を突っ込んでいる彼は依然として押し黙っており、外気に唯一曝された口元は微動もしない、まるで傍観者の態度だ。 「わざわざお別れを言いに来た?」 笹倉は楓に視線を傾ける狭霧に言い放った。 「君は言ったよね。昌人に特別な感情はない。すべては流されて起こったことだって」 「それは」 「愛していない。そう言ったよね」 目の前に歩み寄ってきた笹倉に畳みかけられる。 狭霧は彼の迫力につい気圧されて後ずさりした。 後ろにいた牧村が狭霧の意を案じて一瞬身を硬くする。 「抗えなくて犯された。君はそう言った。牧村の行為は無理矢理で従うしかなかった。とんでもない屈辱だった」 「そんなこと」 「同じだよ」 「いいえ、俺は」 「昌人を憎んだ」 それは本当のことだ。 狭霧は否定できずに閉口し、掌の内側にきつく爪を食い込ませた。 柔らかな風が吹いて金木犀の香りが辺りに散った。 澄みきった夜気に葉擦れの音がひっそりと奏でられて束の間の沈黙に溶けていく。 「それでもいい」 それまで黙り込んでいた楓が口を開いた。 「それで十分だ」 笹倉が楓を顧みる。 「リョウ、さっき言った通りだ。俺はもうそいつのそばから離れない」 楓はゆっくりと顔を上げる。 鋭い光を宿した三重の双眸を露にして狭霧を見つめた。 「忘れるくらいなら俺を憎めばいい」 憎しみで繋がりが保てるのならそれでいい。 「今まで自分の欲望に呑まれるのが怖くて何度も逃げ出してきた。でも。俺はもうお前から逃げない」 楓、何を言っているんだろう。 意味がわからない。 急にそんなこと言われても理解できない。 俺はお前に何て言えばいい、楓。

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