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狭霧はベンチに座る楓に呼び寄せられるように前へ足を踏み出した。 しかし笹倉の口から零れた呟きが狭霧の足を立ち止まらせた。 「結局、僕はあくまで身代わりだったんだね」 狭霧は笹倉と楓の間で棒立ちになった。 立ち上がった楓がフードを外してベンチから歩き出す。 「狭霧君の方から離れていけば戻ってくるんじゃないかって、そんな望みを捨てきれなくてここまで来たけれど。無駄足だったみたい……でもね」 必要とされるのなら身代わりでも構わなかった。 動揺を隠しきれずに笹倉の動向を気にしていた狭霧の隣に楓が並ぶ。 笹倉は崩れかけた自分の薄笑いに必死で縋りついているように見えた。 「昌人にとって狭霧君がすべて……そうなんだね、昌人」 「そうだ」 迷いのない楓の答えに崩れかけていた笹倉の薄笑いは完全に剥がれ落ちた。 「もう用無しってことか」 笹倉がスラックスのポケットに片手を忍ばせるのと同時に牧村が叫んだ。ナイフだと、大声で狭霧に知らせる。次の瞬間には笹倉はもう駆け出していた。 狭霧には、まるでスローモーションじみた映像にしか見えなかった、懸念していたにも関わらず、いざそれが起こると現実味にひどく欠けていて、ぼんやりと突っ立ったまま笹倉が迫りくるのを眺めていた。 しかしナイフの刃先が隣の楓に向けられているとわかった瞬間。 狭霧は楓の前にーー 赤い雫が滴った。 一滴、そしてまた一滴、地面へと落ちる。 細い刃が真っ白な皮膚に沈んで鮮血を滲ませている。 「狭霧」 まず牧村が反応した。 楓を庇って飛び出した狭霧がナイフの前に身を投げ出すのを目撃した彼は絶句した。 ナイフの柄を握る笹倉は立ち竦んでいた。 刃を伝って落ちていく狭霧の血を見、青ざめて、ナイフを手放した。 「どうして」と、狼狽した彼の声が夜の暗闇に紛れた。 血に滑ったナイフは僅かな音を立てて雑草の中に埋もれた。 「楓が傷つくのは嫌だから」 傷ついた掌を地面に翳して狭霧は答えた。 狭霧の背後で凍りついていた楓は一瞬の金縛りから脱して、名を呼ぶこともできずに、目の前にある狭霧の背中を食い入るように凝視した。 自分の両手でナイフを防ぎ、血を流す狭霧は、振り向いた。 「大丈夫、掌を切っただけ」 「狭霧」 「俺は大丈夫だから、楓」 掌を切り裂かれた痛みに目許を歪めながらも狭霧は楓に笑いかけた。 遠い過去に見覚えのある表情に、楓は、目を見開かせた……。 「止血しないと」 ハンカチを取り出した牧村が強張った顔つきで狭霧へ歩み寄る。 一方、笹倉はふらつく足取りで狭霧から数歩離れると片手で顔の半分を覆った。 「こんなのバカみたい」 眼鏡がずれ、薄笑いを取り戻す余裕など皆無な笹倉は投げ遣りにスーツのポケットに片手を突っ込み、今度はハンカチを引き摺り出すと狭霧の方へ差し出した。 「警察に突き出したら。変質者に刺されそうになったって」 「突き出しません。これは俺が自分からやったことだし、平気です」 笹倉のハンカチを受け取った牧村は狭霧の両手を素早く器用に止血し、地面に落ちていたナイフを拾い上げ、刃の部分を仕舞って笹倉へ手渡した。 「行きましょう、笹倉さん」 笹倉は唇をきつく結び、しかし視線は何か言いたげに狭霧と楓の間を行き来したが、顔を伏せて二人に背を向けた。 牧村は狭霧の背後に立ち続ける、いつにもまして口数の少なくなった楓を見、頭を下げた。 「狭霧をお願いします」 二人が公園から立ち去って、狭霧と楓の二人きりになった。 強めの風が吹いて頭上の木々の葉がざわめき、朧な影が揺らめいた。 「俺は刺されてもよかった」 狭霧が眉根を寄せた後ろで楓はやっとそう呟き、傷ついた手に巻かれたハンカチの片方に目をやった。 「あいつが俺を刺す権利はあった」 「やめてくれ、そんな、自分が傷ついてもいいような言い方しないでくれ」 ハンカチに広がり行く血の染みに舌打ちした楓は狭霧の片腕を取って病院へ行こうと促した。 「いや、本当にいい。大した傷じゃないから」 「だって、ひどいぞ、血」 「包帯と消毒薬があればいいいから気にしなくていい」 「おい、狭霧」 楓の手を振り払って狭霧は前へ進もうとしたが。 気がつけば背後から楓に力強く抱き締められていた。 「あいつは本気じゃなかった」 抱き締められた狭霧は逞しい両腕に胸の辺りを締めつけられて呼吸を忘れそうになった。 「あのままじゃ自分がどうしようもないから、咄嗟にやったことで、迷いがあった。あいつは臆病だから」 吐息が耳に触れる度に動悸が加速した。 重なる熱に涙が出そうなくらい安心した。 「だから避けなかった。それで気が晴れるのなら……でもお前がいきなり飛び出すから。心臓が止まるかと思った」 小学校時代の、秋宵の公園で起こった出来事を狭霧は思い出す。 あのときも俺は掌で繋がる熱に心から安心したんだ……。 「お前が俺の心臓にとどめを差そうとした」 楓は狭霧の首筋に額を押し当てて呻くように呟いた。

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