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6-2
狭霧は楓に決別を言い渡したときのことを脳裏に蘇らせた。
あの痛みに楓はどれほど苛まれたのだろう。
小学校の教室や通学路で、凍てついた冬の玄関で。
つらくなかったのだろうか?
どうしてそこまで……。
真剣な眼差しで狭霧の右手をとった楓は再び無口になった。
自分に対する楓の想い、過去に抱いた疑問の答えを一度に知らされた狭霧は一つずつ理解するのに精一杯で、いつにもまして寡黙な時間が二人の間を流れた。
「……もういい、狭霧」
我に返った狭霧は両手に綺麗に巻かれた包帯に胸を熱くさせた。
「ありがとう、かえ、でーー……」
正面から抱きつかれて狭霧の感謝の言葉は頼りない語尾になった。
しなやかな背に両手を回し、服の内に燻る狭霧の体温を褐色の頬で感じ取って、楓は嘆息した。
「なぁ、狭霧……お前も昔こんな風に介抱してくれたの、覚えてるか」
楓は目を瞑って、今度は一つの思い出を語り始めた。
それは小学校にもまだ入学していない頃の出来事だった。
狭霧の家で二人は遊んでいた。
母親は妹を連れて買い物に出かけていて、木枯らしの吹く外は寒く、暖房の効いたリビングで二人は子犬みたいにじゃれ合っていた。
だが、突然、楓が小さな悲鳴を上げた。
狭霧はびっくりして彼にぴったりと身を寄せ、それを見つけた。
楓の掌に小さな棘が刺さっていた。
古いイスの脚がささくれ立って、狭霧も昨夜、ダイニングテーブルの下でふざけていたら急に指先に鋭い痛みを感じて泣き喚き、一騒動起こしたばかりだった。
楓は、狭霧のように泣かず、じっと掌を見つめて涙を堪えていた。
狭霧は必死になって、昨夜母親が棘を抜いてくれたときの様子を思い出し、和室に仕舞われている裁縫道具を引っ掻き回し、一本の針を取り出した。
張りを持つ手は震えていたが、痛みをとにかく取り除いてやりたい一心で、狭霧は涙ながらに楓の手をとった。
ちくりとした痛みが生じる。
血の玉がふわりと零れる。
楓はずっと我慢し続けた。
狭霧は楓に何度も涙声で謝って、皮膚を突っつき、やっとの思いで棘を取り出すのに成功した。
楓の掌の血を唇で拭い、キッチンに出しっぱなしになっていた絆創膏を一枚、傷口に貼りつけて、狭霧は微笑んだ。
「これでだいじょうぶだよ、よかったね」
「……覚えてない」
狭霧の一言に楓は声を立てて笑った。
「小学校に入る前だしな。その頃、俺はお前の家にしょっちゅう入り浸っては何かと世話になってた」
楓が喋る度に僅かな振動が肌身にまで伝わってきて狭霧は辟易する。
しかし自ら離れるのは惜しい優しい抱擁に時間も忘れて延々と甘んじていたい気もした。
「俺よりもお前の方が痛そうな顔して泣くんだ。でも、必死になって抜いてくれた」
楓は思いがけないくらい丁重な仕草で狭霧の右手首をとり、軽く持ち上げると、脈が薄青く浮かび上がる部分に口づけた。
「そのとき思った。この先、お前のこと守ろうって」
「楓」
「でも、結局肝心な時はお前に守られるんだな」
「違う、楓は……」
頬の紅潮をどうにかする術もわからずに狭霧は項垂れた。
両足の狭間にいる楓の髪に手を伸ばそうとして、慣れない行為にやはり気恥ずかしさが増して、空中で不自然に停止させた。
「楓は何度も俺を守ってくれたよ」
楓が顔を上げた。
狭霧はつい目線を外そうとしたが、あまりにも切実な眼差しで見つめられて外すのは躊躇われ、唇をきつく結んで鋭い三重の双眸を見つめ返した。
「お前と再会してやっとわかった。俺は狭霧の全部がほしい。」
鋭さの裏側には何物にも代え難い強い願望がいつだって秘められていた。
それは狭霧が幼い頃から目撃してきたその場限りの欲望、他社の下卑た好奇心とは遥かに度合の違う、すべてを切に望む強烈な想いだった。
「俺は、魂ごと、誰よりもお前を求めてる」
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