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#ズルイ人

俺が来た時には、もう何もかもが遅かった。 「来るな!!」 俺の存在に気が付いたそいつは、周りに転がってる夥しい数の研究員と血の海の中で、そう叫んだ。離れた距離からでも、そいつが震えているのがわかる。 「…来るの、遅くなってごめん…。一緒に、帰ろ?」 一歩一歩、ゆっくり近付いていく。歩くたび、ピチャピチャと水の音を響かせながら。 「来るんじゃねぇ…!!頼むから、帰ってくれ!!」 今まで聞いたことがないような怒鳴り声。普段は温厚な性格なだけあって、そんな声も出せるのかと変に感心した。 「なんで?あんたが帰らないなら、俺も帰らない」 「…っ、やめろ、本当に、俺は…!!」 止まらない俺の足に、そいつは異常なほど怖がって、嫌がって、叫んだ。 「お、俺は、お前だけはっ、傷付けたくない!!」 震えて、震えて、部屋の隅にうずくまる。 一人で恐怖を体験し、今もなお、恐怖している背中。 「俺は大丈夫。何されても大丈夫だから」 優しく語りかけるように、震えるその人に手を伸ばした。 「やめろよ!!!」 が、物凄い勢いで振り払われ、手がジンジンと痛み出す。ボロボロと涙と鼻水を流し、ぐしゃぐしゃの顔で俺を見つめるそいつは、もう俺の知っている瞳をしていなかった。 こうなるまで、"何か"をされたんだ、俺が来る前に…。 「そんなに怖がらなくてもいいんだよ」 「やだ、やめて、帰ってくださ…っ、お願いだからぁ…」 まるで土下座をするかのように額を地面に引っ付けて俺の事を見るのをやめてしまう。俺は地べたに座って、顔を上げてくれるのを待った。 「…んで、言うこと、聞いてくれないんだよぉ…」 座って動こうとしない俺に、そいつは泣きながら言った。 「だって、俺はあんたと一緒にいたいもん」 「でも、もう俺は俺じゃない…っ、だから…っヴゥ…ッ」 突然、苦しそうに胸に手を当てながら唸り出す。 「えっ、なに、どうし…っ」 「あっちいけッ!!」 触れる直前、俺はそいつに突き飛ばされた。それも凄い勢いで、人間の押す力を超えているんじゃないかとも思う。 「……っ、」 そして、俺は目を疑った。 「が、あ゛ぁ゛…ッ、」 蹲るそいつの背中が大きく膨れ上がり、茶色の毛が全身から伸びて人の形ではなくなってきている光景に。 「な、なにが、起きてるの…?」 その姿は、まるで…. 「オ、オ、カミ…?」 でも野生の狼とは程遠い。どちらかと言えば映画に出てくる野獣のようだった。 「…げ、ろ…」 「え…?」 微かに聞こえた、小さくて低い声。 「に、げろ…、たの、む…」 ゆっくり顔をあげ、俺を見たそいつは、 「おまえ、を、きず、つけた、く、ない、んだ…」 涙を流しながら、微笑んでいた。もうほぼ別のものに変わり果てた姿なのに、瞳だけが俺の知ってるそいつに戻っていて。 「な、んで…」 気が付けば俺も泣いていた。 新種のワクチンが開発された。それは、どんなウイルスにも負けない、難病にも効く奇跡のようなワクチン。だが、その副作用は凄まじいものと予測され、患者に使うにはリスクが高すぎると、使うことは一切禁止された。 けど、そのワクチンが完成すれば、どれだけの儲けが出ようかと、金に目が眩んだ研究者たちは警察の目に届かぬよう実験台を用意して、次々犠牲者を出していった。 その中の一人が、研究員の父を持つ…。 「なんで…っ、あんたが、あんたがこんな目に…っ!」 一体そいつがなにをしたって言うんだよ…なんで、こんな目に合わなきゃいけない…っ! 「…こ、ろ……」 手で顔を覆い、悔しさと怒りで歯を食いしばって泣いていた時、か細く、今にも消えてしまいそうな声がした。 「え…?」 「ころして、くれ…、たのむ、よ…」 もう全てを諦め、疲れたように微笑んだそいつは、俺の方に研究員らが持っていた銃を投げて寄越す。もちろん、そんなことしたくないし、できない。 でも、今のそいつの姿をみたら何も言えない。 そいつにとって何が正しくて、幸せな選択なのか、俺にはわからない。 「っ、正解は、なに…っ」 泣きながら銃を拾った瞬間、そいつは安心した顔を見せ、そこで俺は気が付いた。 こうなってしまった今、そいつの中の選択肢は「死」しかないんだ、と。 「俺を、ころして、にげてくれ…」 身体が限界に近いのか、ブルブルと震えるのを必死に抑え、俺に殺されるのを待っている。 「…そんなの、ズルイよ…」 誰よりも辛いのは、そいつだってわかってる。 けど、俺だって辛いんだよ。 「あんたのいない世界で、どうやって生きろっていうの」 今まで愛し合ってきた。辛い時も悲しい時も、苦しいことは全部一緒だったから乗り越えられてきたんだよ。楽しい時も嬉しい時も、幸せなことは全部二人で分け合ってきたじゃんか。 「なんで、あんただけいなくなる選択をするんだよ…」 俺は卑怯で、我儘な人間だ。 「あんたを、一人で逝かせない」 最後の最期でそうさせたのは、あんたなんだからな。 「…ねえ、俺を抱きしめて?」 そう言って、俺は銃を捨てて、近付いていく。 「…っめろ、くるな…、もう、……っゔあ゛ぁ゛!」 限界を超えて、そいつの理性が吹っ飛んだ。 両手を広げる俺めがけて、勢いよく走ってくる。 「……っ!!」 初めは衝撃が大きすぎて痛みすら感じなかったけど、次第に焼けるような痛みが全身を襲う。 「…ははっ、泣く、なよ、悪かったって…」 バリバリと泣きながら俺を食い散らかすそいつの頬を、辛うじて動く右手で、そっと撫でてやった。 俺は知っている。 理性がなくなっても、そいつは俺が死んだ後、後を追うように自分も死んでくれるって。 そして、そいつも知っている。 殺すより殺される選択をした俺のズルさと卑怯さを。 「(あんたと一つになって死ねるなら、本望だよ)」 そんなセリフも、もう声に出して言えないけど。 「我儘、ばっかり、ズルイ人……」 遠退く意識の中、最期にそいつの声が聞こえた。

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