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第32話
世間では8月が終わり、9月になる。
夏休みから2学期になると、暑さもあり、その休みの感覚に引きづられそうだったが、結構、半月近く経つのは早いものだった。
「みなと……」
まるで、8月の久川との1日が今では嘘のように片倉には思えた。
嘘……あるいは、都合の良い妄想か、でなければ、いつかは波にさらわれて跡形もなく消える砂の城のようなものか。
名称は違えど、虚しいのに幸せで、儚いのにいつまでも片倉の心に残っている記憶だった。
「本当はこの旅行の最後に全てを話そうと思ったんだけど、話したくないな」
久川と最初で、最後の不倫旅行の日。
片倉は久川とトースターで昨日、買っていた食パンを焼いて、ジャムや蜂蜜を塗って食べる。
今回も久川は片倉を家まで送った後、空港へ向かい、娘の灯英と妻の妹夫妻である長崎夫妻の待つイギリスへ合流するらしかった。
「話したくないし、帰りたくない。できれば、ずっとこのまま、健人といたい」
いつかはこの旅も、久川との関係さえも終わるかも知れないが、久川と2人きりの1日は片倉の今までのどんなそれよりも短かった。
「帰らないことはできないけど、話したい時に話したら良いよ」
片倉は一瞬、自分の口から出た言葉が信じられなくて、ジャムのついたトーストを皿へと落としてしまう。落としたのはあまり良くないが、服や床の上に落ちるよりはマシだった。
久川の片倉の言葉か、行為かは分からないが、驚くと、またいつものように言った。
「ありがとう。じゃあ、その時は聞いてやってくださいね」
昨日の久川がしてくれたおまじないは切れたということなのだろう。
そこにはもう町のカメラマンだけの久川港はいなかった。
「ええ、お待ちしています」
そして、そこにはもう小学校の教諭ではない片倉健人もいなかった。
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