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第64話(第3章)

 それでも構わないと判断した。これで彼を失う事になるかも知れない。その事だけが…苦しい。片桐と引き離されるかも…と、そう思った。もし、そういう事態になれば、彼に強い恋情を抱いているだけに、喪失感は計り知れないだろう。  片桐の視線が上がり、絢子様を見詰めた。 「いえ、私がずっと片恋していたのです。それを加藤君が受け入れて呉れただけです。絢子様のお申し出は大変忝く思っていますが、加藤君の件はどうしても諦める事が出来なかったのは私のせいです。御軽蔑なさいますか、この関係を」  静かに言った。絢子様の思慮深い瞳が、複雑に揺れた。 「わたくしは、自由に恋愛など出来ませんもの。学校を卒業したら…もしかしたら其の前かも知れませんがフィアンセが決まり、否応無く嫁がされるでしょう。大陸に嫁ぐかも知れませんわ。…その前に自由恋愛をしたかったのです。それが片桐様ですわ」  そう仰って、紅色の口を噤んだ。緑色の単の振袖に合わせた翡翠の簪が彼女の頭に飾ってある。其の簪が揺れた。  暫く唇が悔しそうに閉ざされた。敵意とも決意とも取れない表情をしてこう仰った。  御言葉が出る前に、思い付いて抱擁を解いた。しかし、片桐は自分の手を握ったまま、離さない。  遠くから聞こえる筈の音楽や、招待客の声などは全く耳には入らなかった。  ただ、薄く形の良い紅色の唇が動くのを待っていた。 「つまりは、御二人は相思相愛という事でございましょうか」  悲しげな眼をなさって、絢子様は仰せになる。  (そうです。と言ってしまえば、最悪の場合、加藤の家に知らされてしまう。そして引き離され、片桐は絢子様と婚約するかも知れない……)  その恐怖に、躊躇していると、片桐が硬い表情で断言した。 「その通りです。加藤君は私の唯一の存在です」  片桐の手を繋いだまま、晃彦は片桐を庇うように一歩前に出た。 「私も片桐君が最愛の人間だと思って居ります。絢子様。しかし、私の熱意に彼は引き摺られているだけだと愚考しています。責任は私に有ります。」  紅色の唇が少し緩められた。 「加藤家と片桐家の確執は風の噂で存じて居りますわ。それでも、御二人は睦まじくなさっていらっしゃるのですか」  流石に自由恋愛に憧れていらっしゃる宮様だけ有り、社交界の事にはお詳しい御様子だった。普通は内親王に醜聞を耳打ちする方は居ない。  絢子様の微笑が少し深まったが、複雑な顔をなさって居る。  その微笑は慈しみのようだった。そこに活路を見出すしか無い。 「最初は、確かに片桐君に感じていたのは憎悪です。しかし、彼を知る内に想いは深まるばかりでした。家の問題よりも、彼の存在の方が私に取って大切になりました。  そして、彼に自分の正直な気持ちを伝えたのです。片桐君はそれに応えただけですので、どうか彼に責めは負わせないで下さいませんか」  懇願口調で申し上げた。

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