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第65話(第3章)
「家の問題は、重々分かっています。そしてこの恋情が他の方に漏れたら私はともかく、加藤君は窮地に立たされる…それは分かって居ました。しかし、それでもこの想いは捨てる事が出来なかったのです。
この恋情は私にとって一生に一度の物だと、そう思っています。漏れたら、加藤君の迷惑になる…そうなった場合は、出来るだけ彼に迷惑が掛からないように身を処する積もりです。漏れるまで時間は限定されると予想しています。それまでは、加藤君と一緒に居たいと思っております。
何時別離が来ても良い様に心の準備だけはしています。しかし、出来るだけ長く彼と一緒に居たいと思う事は罪でしょうか」
一言一言自分の想いを確かめる様に片桐が言った。彼の顔を覗き込んで、驚愕した。普通に話していたにも関わらず、彼の大きな瞳からは涙が一筋流れて居た。
絢子様は優雅に吐息をなさり、扇で顔を隠された。
「御二人共、そこまでの御覚悟でいらっしゃったのですね。わたくしは片桐様の事はとても気に入って居りましたが、その様な御顔をなされるとは、予想外でしたわ。御二人で御幸せに。わたくしの想いなどは、御二人には到底敵いませんもの。勿論軽蔑も致しませんし、罪などとも思いませんわ。…口外も致しません。そして、わたくしは御二人の恋の御味方を致しますわ。わたくしで出来る事が御座いましたら、遠慮なく仰って下さいませね。では、ごめん遊ばせ」
悄然とした足取りで絢子様は庭園から離れて御行きになった。最後に寂しげで潔い微笑を二人に投げ掛けたのが印象に残った。
絢子様が静々と立ち去って行かれた。その優雅な背中を見送っていると、遠くから招待客の笑いさざめく声と楽師達の奏でる音楽が聞こえて来る。握ったままの片桐の掌が冷たい汗に濡れていた。そして小刻みに震えて居るのが分かった。恐怖か興奮かは分からないが彼も動揺していたのが分かる。震えを止める為に強く握った。
「済まない事をした。いくら様子が分かっている三條の屋敷だからといって、人目も気にせずに居た事は不用意だった」
「いや、謝るには及ばない。オレも華子の為と言いながらも晃彦に遭いたくて三條君の招待に応じたのだから」
彼の顔には涙の雫が残っている。改めて周囲に誰も居ない事を慎重に確かめて、唇で恭しく拭った。
「絢子様には申し訳無いことをしてしまった。ただ晃彦と逢いたかっただけなのに」
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