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第84話(第3章)

 世界で最も愛しい存在を抱き締めながら素早く考えを巡らす。彼は余韻が抜けないのか身体を凭せ掛けて来ている。その身体の重みも熱も香りも全てが慕わしい。  上野の帝室博物館も壮麗な建物だが、展示品目当ての学友に会う可能性は絶無とは言えない。  浅草はどうだろうか…。あの界隈は庶民の町だ。近くに有名な吉原遊郭があり、そこには自分達の階級の紳士も訪れると聞いているが、お忍びで行く人間も多分移動は自動車だろう。道路から外れてしまえば問題は無い。浅草寺も良いが誰かが見ているかもしれない。帝都に住む人間が訪れる可能性が低いのは…凌雲閣だろう。有名だが帝都見物の客しか登らないと聞いた事が有る。市電で行けば時間もそう掛からない。 「凌雲閣に行った事はある…か」 「浅草の…12階か。オレは…無い。噂に聞くぐらいだ」  首筋に顔寄せているため彼の息が掛かって気持ちが良い。そっと手を伸ばして顔を見てから唇を合わせた。 「行ってみないか」  そう誘うと頷きが返って来た。相変わらず聖歌の練習に励む露西亜の少年達の合唱する「アヴェ・マリア」を聞きながら二人して教会を後にした。制服で帝都を歩いて居ても男二人だと何も言われないが、滅多な会話は出来ない。  女子部に通う生徒は基本的にはお着きの女中か運転手が存在するのだからその点は気楽で良いが、制服も知っている人間は学校名を当てるだろう。 「凌雲閣…か。楽しみだ。富士山までもが見える12階建ての建物だろう」 「そうらしいな。俺も行った事が無いので良く分からないが、日没までに着けば今日の天気だと東京中が見渡せるらしい」 「エレベェタァと言う乗り物は英語の教本には出て来るが実際に見た事が無い」  市電の中で他愛の無いことを話していた。片桐は先程の情交の痕跡を微塵も感じさせない。彼の精神力の強さと鍛えた体のせいだろうか。 「俺も見た事も乗った事もないので楽しみだ」  そう言いながら浅草に着いた。12階の建物がそびえ立っている。迷う事無く到着する。彼も楽しそうに瞳を輝かせていた。自分達の行動範囲で無いので気が楽なのだろう。 「ああ、これがエレベェタァなのか…」  英国に興味のある彼は興味深そうに乗り込んだ。目論見通り、帝都に住んでいそうな人間は見当たらない。自分の選択に安堵しながら初めて乗るエレベェタァに揺られた。結構揺れるものなので、自然と身体が密着するのも嬉しい誤算だ。  エレベェタァの後は階段で展望台まで上がった。確かに富士山も帝都・東京も一望出来るが、12階だけ有ってかなりの高さだ。  周りの人間も怖がって連れの人間にしがみついたり、手を握ったりして居る。丁度いい機会だからと手を繋いだ。ここでは男性同士でも普通の光景だった。外国ならいざ知らず日本でこの様な高さの建物は存在しないのでまるで外国に居るかのようだった。

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