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第86話(第3章)
学校では三條以外にはこの事を悟っている人間は居ないはずだ。片桐家は、程度は分からないが華子嬢しかこの関係は知らないはず。
まさか屋敷で逢瀬などは出来ないだろうが、自分の家の事は調べておいて損は無いと思った。
隣で思いに沈んでいた様子の片桐は、ふと言った。
「欧羅巴《ヨーロッパ》に行きたい。晃彦と」
「そうだな……外国へ出てしまえば、こんな窮屈な思いはしないで済むだろうからな。どこの国が好きなのだ?」
「仏蘭西《フランス》も捨て難いが、家庭教師の先生によると、全く英語が通じないそうだ。だから矢張り英国だろうな、行くのなら」
「テムズ川のほとりを二人で散歩するのも悪くない考えだ」
その返答に片桐は透明な微笑を浮かべた。
「一緒に行こう」
「ああ、オレも行きたいと願っている。・・・・・・もともと英語に興味が有ったのは外国に行きたかったからだ」
「そうなのか」
「ああ、外国へ出てしまえば、家の事も何も考えなくて済む。そう思ったら無性に憧れが募った。我が家は過去の因縁に囚われているからな…」
繋いだ手を強く握って断言した。
「俺と一緒に行くと約束して欲しい」
片桐は澄んだ目を見開いて儚げに笑った。
「ああ、約束する」
「きっと、いつか一緒に行こう」
「いつか……きっと……」
しかし、その口調は寂しげだった。
寂しげな口調に押しかぶせるように、繋いだ手にいっそう力を込めて言った。
「俺も成績対策ではなく、実践のための英語を教わる。だから、一緒に行こう…いや、行ってくれるか」
「………ああ、晃彦がそう言うなら」
「約束だぞ」
念を押すように言うと頷いた。
周囲の人間は皆、景色に注意を向けている事を確かめると、素早く接吻した。
「なっ!」
「誓いのキッスだ」
慌てて周囲に目を遣る片桐に微笑んだ。
それから、帝都の景色をただ手を繋いでずっと見ていた。
二人で居る。本当はそれだけでいいのかもしれない。
情痴に溺れているわけでもない。ただ、身体を重ねた方が片桐の抱えている不安や苦悩が一時でも忘れられる。
それに、彼の熱い身体は決して嘘を吐かない。本心を吐露してくれる。勿論自分にも情欲は有ったが、愛情の確認行為としての意味合いの方が大きい気がしていた。
「日没だ」
彼の声に、彼が見ている方向を見た。赤い色の太陽が海に沈んでいく。残光が海や雲に映え、とても美しい。
二人で見ているからこそ、余計にその美しさが心に残るのかも知れない。
「そろそろ、屋敷に戻らねば」
とても残念そうに片桐が言った。
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