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第87話(第3章)

「明日も逢えるか」  右手の人差し指を唇に当てて彼は頷いた。 「いつものようにニコライ堂で。出口の近くに居る」 「分かった」  そう言って凌雲閣を降りた。市電に乗ると、勤め人達の帰宅とぶつかった。かなりの混雑だ。自分よりも頭一つ分だけ低い片桐の身体を庇っていた。  こんな風に全てのものから庇いたいのだが…。  勿論、彼は自分の力だけで何でも出来る。勉学も社交も何もかも。  しかし、庇いたいと思った。出来れば一生涯かけて…己の非力さは分かっているがそれでもなお・・・。  別れ難い思いを振り切って、各々の屋敷に戻った。  屋敷に戻ると、いつもは気にしていない使用人達の人間関係を密かに探った。嫡子である自分に、使用人達は本音を決して口にしない。言葉の端々から窺い知るのみだ。  知る事が出来たのは、キヨとマサの忠誠心は紛れもなく本当で、しかも――自分に取っては最悪な事に――二人は競争心を持ち合わせていないということだ。何でも、加藤家に江戸時代以来仕えて来た二人は仲が良く姉妹の様に加藤家を共に盛り立てて行こうと誓い合っているという。  では、部屋付きの女中はどうだろうか。  今までは使用人を単に部屋を掃除したりする人間だと思って居た。舞台の黒子のように。  片桐は身分を問わず困っている人間をためらいなく助けたにも関わらず、自分は彼の行動を他人事の様に把握していたのが悔やまれてならなかった。  それとなく観察していると仕事振りは真面目だが、使用人とは仕事の話しかしない女中が居た。無駄口を利くのが嫌な性格なのか見極めようと思った。自分の部屋付きの女中ではないが、今の部屋付きの女中は結婚が決まっているのでもう直ぐ暇乞いをする予定だ。  もう少し様子を窺ってから彼女が信頼出来そうだと判断するに足りれば、自分の部屋付きにしてもらおうと決意した。  翌日いつもの時間に登校すると、三條が喜色満面で挨拶をして来た。片桐はまだ登校していない。歩きながら話をする。 「昨日、家の執事を片桐家に遣わした。正式な返事はまだだが、悪くない感触だったと。片桐君はどう言っていた」  自分達の階級以外でも婚礼の申し込みの返事は数日間ほど掛かるのが普通だ。それに三條家との縁組は片桐家に取ってこの上ない良縁だと思われる。  勿論、片桐の両親は絢子様からの御求婚が有った事は知らない筈だ。知っていたら、何としてでも纏めたかった事だろう。  片桐の将来を棒に振ったのと同じ事なのだ。自分の求愛のせいで。だから、余計に彼に対して生涯守る義務が有ると思った。 「『兄として三條君なら申し分の無い相手だ』とか何とか。彼自身で断りはしないだろうと思うが…」  三條の笑みが深まったが、ふと眉間に皺を寄せる。

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