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第102話(第4章)
片桐が小声で囁く。片桐の視線の方に顔を向けると初老の婦人がちらちらとこちらを見ていた。少し眺めたが知り合いとは思えなかった。
「いや、違うと思うが」
「そうか、先程から晃彦とオレの顔を見ていたから…」
「誰かと間違えたか、この制服が珍しいのだろう」
「そうか…それなら良いが」
片桐は眉を顰めた。
その時、自分の判断が最大の過ちになるとは思いも寄らなかった。
逢瀬の方が気になって、片桐が指摘した婦人の事は頭の中の隅にしか留まらなかった。
店内は程よく込み合っていて、皆楽しそうに食事とお喋りを楽しんでいる。
こちらの会話に注意を払って居る者が居ない事を確かめて、自分の部屋が何処にあるかを説明する。
建築様式が似通っているので、嫡男の部屋は大体似たようなものだ。理解も早いだろう。
三日後はわざとカーテンは開け放して置くように女中に指示する事にした。
自室は二階に有るのが厄介だが、幸いな事に楠の大樹がベランダの近くまで伸びている。
「お前、木登りは上手か」
運動神経が発達している事は知って居たが、木登りの事は聞いて居ない。
「得意だ。幼い頃は良く屋敷の庭で木登りをして遊んだ」
「そうか、それでは、一番ベランダから近い枝に縄を結びつけて置くのでベランダから入って来てくれ」
「分かった」
片桐が微笑む。
その時、片桐が気にしていたご婦人が席を立ち、勘定場に向かった。その横顔を見た瞬間、「誰かに似ている…」と直感したが、気のせいだろうと流してしまった。それよりも重大な用件が有ったから。
「お前、眠りが浅いのだよな」
「ああ。しかし、今日は晃彦のお陰で良く眠れた」
「それは嬉しい。俺が居ると眠れるのか」
「…そうみたいだ。一緒に居ると心が軽くなるから」
「今日みたいに睡眠不足で倒れる前に、お前が時間の取れる時で構わないから、三條家の客用寝室で仮眠を取ってから屋敷に帰る様にした方が良いのではないか。勿論、俺も付いて居る」
片桐は思案する様な顔を見せた。
「オレなどがこれ以上三條家に迷惑を掛けて良いものだろうか」
「三條は迷惑などと思わないと思う。お前が倒れて居た時も心配していたし、華子嬢を是非ともお嫁に貰いたいと熱望している人間だから、この際、兄上様にも恩を売っておきたい筈だ」
「……。そうか・・・…ではそうして貰えれば有り難い。睡眠不足で情けない限りなのだが、何度も意識を手放しそうになった事がある。だから晃彦が付いていて呉れるのなら一時間か二時間熟睡出来そうだ」
「三條には俺から話しておく。お前は帰宅途中にでも三條邸に寄ればいい。来られなくても俺は一向に構わないから、気にするな」
「有り難う。そうさせて貰う」
食事を終えて華子嬢に頼まれていた便箋と封筒を買いに三越デパートメントストアに行った。
靴を下足番に預け、目当ての竹下夢二の売り場に行く。女性ばかりかと思っていたが、自分達の様に頼まれて来ているらしい男子の大学生や高校生も居た。華子嬢の可憐なイメェジに合った封筒と便箋を二人して決めた。
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