107 / 221

第108話(第4章)

「引き受けた時は此れ程疲れると思って居なかった……」  吐息交じりに片桐は言った。彼が愚痴めいた事を言うのは初めての事だった。 「この位の明るさで眠れるか」 「どうだろうか……。昨日の様に晃彦が目を覆って呉れればもっと……」 「分かった。制服は着替えるのか」  片桐の華奢な首筋を締め付けている釦《ボタン》を外しながら聞いた。 「着替えて寝てしまったら、昨日の様に寝てしまう……だから上着だけで、良い」  彼の言う通りにして、ついでにベルトを外す。  彼を寝台に横たわらせて、左手で目を覆い、右手で髪を梳いた。 「昨日、お前が気にしていたご婦人の件を聞いてもいいか」  髪を梳かれる事が良いのか、口調が穏やかになった片桐が語り出した。 「伊豆栄に入って行った時に、ご婦人が晃彦の顔を見て微笑んだ。その時晃彦はオレの方を見ていたので気付かなかった。そして次にオレの顔を彼女は見た。すると、一瞬考えるような顔をしてから、顔が真っ青に成った。そして晃彦とオレの顔を交互に見ていたが、オレの顔を見る時は敵の顔を見る様な感じだった。多分、晃彦の家の縁者だろ……う」  そう言い終ると、引きずり込まれる様に片桐は眠った。  俺の家の縁者……。眉間に皺が寄る。  唇を軽く啄ばんで、左手を重ねた。彼の手は冷たかった。  自分は見覚えが無かった婦人だが、使用人の縁者と言う事も充分考えられる。微妙な空気を感じたのは気のせいではない可能性が高い。  今の世の中は、家長だけが知って、判断する事が殆どだ。自分が家長に成れば全ての情報が知らされる事に成る。 (ただ、この恋が露見すれば家長には成れない可能性の方が大きい。片桐を諦める事は絶対に出来ない。ならば、家長は弟の晃継に譲って、大学までは何としてでも通って丸の内に勤めるサラリィマンになろう。帝大を卒業すれば働き口は見つかるだろう……)  彼の寝顔を見てそう決意した。 (ただ、片桐は家を継ぎたいのであれば、応援はしてやりたい)  安らかな寝顔を見つめてから滑らかな額に接吻した。 (とにかく、父上と母上の動向を静さんにさり気無く窺ってもらうようにしなければ)  飽かず、彼の髪を梳きながら考えていた。  もっと一緒に居たかったが、そろそろ片桐の起きなければならない時間だった。  彼の目蓋に唇を当て、握った掌の力を強くした。  ゆっくりと彼の目が開く。  そっと顔を近付けておもむろに唇を合わせた。 「良く眠れたか」  名残惜しげに唇を離してから言った。 「ああ、かなり疲れは取れた様だ。有り難う」  そう言って上半身を起こし、口付けをして来た。 「疲れているのだ。帰りはきっと三條が送ってくれる」 「本当は晃彦との時間をもっと取りたいのだが、我が儘を言う訳にはいかないな。明日、また此処に寄る」  そう言って首に手を回し、口付けをねだって来る様子が堪らなく愛しい。

ともだちにシェアしよう!