111 / 221
第112話(第5章)
マサは、主人夫婦に一礼すると、片桐と自分の方を見ないようにして報告を始めた。
「御二人が出て行かれてかなり経った頃でしょうか。ベランダからこの方が入っていらっしゃいました。そして、口を合わせられました。唇を吸いながらこの方が晃彦様の釦を外していかれました。それに誘われるように晃彦さまもこの方の釦をお外しになられました。この方は晃彦様のベルトまでお外しになられた処に旦那様方がお帰りになられました」
事実は殆ど合ってはいたが、この説明では悪いのは片桐の方になって仕舞う。
凍りつくような空気が辺りに漂った。
「まあぁ、それでは、片桐家のご子息は晃彦さんをたぶらかしたということですか」
「はい、奥様、その様にお見受けいたしました」
母は片桐に冷ややかな眼差しを向けた。
「間違いはありませんか」
――言い返してくれ。それは事実と異なると――
そんな言葉が口まで出掛かった時に、片桐は決然とした声で言った。
「間違いは有りません。全てはその通りです」
今まで黙って居た父が口を開いた。
「この問題は到底看過出来ない。片桐伯爵は病気で臥せっているそうだが、意識はおありになると聞いておる。事の顛末を手紙で知らせよう。君も帰り給え。本来ならば裏門から叩き出すところだが、君も一応は華族の人間だ。マサに送らせるから表門から出て行きなさい」
反論を許さない重々しい声だった。
片桐は深々と頭を下げ、儚げな澄んだ瞳を一瞬自分に向けて前を向き、マサの後に続いて出て行った。
「わたくし達は着替えますわ。その後で晃彦さんのお話しを伺います。それまでは決してお部屋の外に出ないようになさって」
苛立ちも露わに母は言った。
弁解したい事は山程有ったが、今夜の二人を見ていると、なまなかのことでは納得してくれないだろう。それに、片桐伯爵宛に書くと仰っていた手紙……。
自分の想いの危険さを重々承知の上での愛だったが、予想以上に危険だったと痛感した。
だが、当然付いて行く筈のマサは何故残って自分を監視していたのか……と思いを巡らして瞬間、伊豆栄で鰻を食べて居た時に片桐が気にしていた老婦人の存在に思いが至った。老婦人は誰かに似ている……とその時は漠然と思っただけだったが、今になるとはっきり分かった。あの老婦人はマサに似ている。親戚か何かなのだろう。そしてその話がマサに伝わり、父母に注進が行ったのだとすればつじつまが合う。
今の自分に出来る事、それは片桐を救う事だと思った。しかし、片桐との愛だけは絶対諦めることだけは出来ない事だった。
ともだちにシェアしよう!