174 / 221
第175話(第7章)
色々考えを巡らしていたので直ぐには反応出来なかったが、片桐伯爵が、覚束ない手つきながら、署名と昔ながらの花押を書き込んでいらっしゃった。
父は躊躇する素振りは見せていたが、皇后陛下の前で、しかも今上陛下の書類に「承諾」以外の書き込みは許されない世界に生きて居る。
その躊躇いを目敏く見つけられた皇后陛下は、少し揶揄するように唇を弛められた。
「強制ではありませんよ。お気が進まないのでしたら……」
そう仰って、紙片を卓の上から取り上げようとなさった。
皇后陛下、しかも書類は今上陛下の御使用になる紙だ。これを無視すれば、忽ち社交界では噂は駆け巡るだろう。そうなれば、父母は社交界では完全に爪弾きにされる。
絢子様はそれをお考えになっていらっしゃるのだなと思った。
母も真っ青な顔をして震えながら父を促す。母もこの書類に署名しなければどういう事態になるのか予想は付いているに違いない。
父はしぶしぶげに筆を取った。いつもは万年筆を使っている父だったが、片桐伯爵に対抗するように筆を取り、名前と拇印を押した。その手が――恐らくは屈辱の余り――小刻みに震えて居た。
母もハンケチを破けそうな勢いでもみくちゃにしている。
絢子様は、素早く自分と片桐に意味有りげな微笑を投げ掛けて下さった。
父が署名して居ると、母はハンドバックから舶来の扇を出して広げた。
自然と家族が固まる様になっていたので、母の行動を見るともなしに見ていると、扇を広げ、皇后陛下と絢子様から死角になるように顔に翳し、片桐伯爵と片桐を憎悪に満ちたで睨んでいた。
その目の光は、自分も見た事が無い程の強烈さだった。
片桐伯爵はお体が不自由な事も有ってか、身体を動かすのも億劫そうなので幸いにも気付いていらっしゃらない。
片桐は敏感な性質だ。危惧を抱きつつ片桐の顔をそっと見ると、彼の顔が幾分強張っていた。矢張り母の視線を感じているのだろう。
ただ、自分と目が合うと心配するなと言いたげな目配せをした。しかしその目配せを素早く察した母が自分に向けて瞋恚の眼差しを向けてきた。
絢子様は皇后陛下の御傍にいらっしゃったが気軽に早足でお歩きになって、自分の傍にいらっしゃった。そして母の刺す様な視線を一瞥なさった。
「まぁ、恐ろしい顔をなさって居ますわね。余程この御署名が気に入らない様でいらっしゃいますこと……」
ともだちにシェアしよう!