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第184話(第7章)
その懸念を今だけは考えたく無かった。彼の柔らかな髪の毛を梳いたり、すっかり肉が薄くなってしまった頬を触ったりしていた。彼も嬉しそうに目を閉じて同じ事をしてくれた。
「そろそろ、行くか」
片桐が言った。
「そうだな……。俺の御両親が見苦しく騒いでなければいいのだが……」
片桐の返事は無かった。彼なりに案じているのだろう。
女中が先導し、二人して廊下を歩く。マナァ通りだと客人である自分が先に歩くのだが、片桐の近くに居たい一心で並んで歩いた。本当は案じているに違いない片桐の手を握り締めたかったが、使用人の目も有るのでそれは出来ない。
以前案内された片桐伯爵の私室ではなく、主人用の応接室に通された。
冷たい飲み物と季節感の有る御菓子が用意されている。片桐伯爵は流石にお疲れになっていらっしゃる様子だった。夫人も顔色が優れない。
案じていた通り、自分達が退出申し上げた後に何か有ったらしい。
着席を許されるまで、二人して立ったまま視線を交わす。色恋沙汰には鈍感な片桐だが、こういう事には敏い。しかし、今の状況なら誰でもそう思うだろうとは思う…彼の顔も強張って居た。
着席が許されると、並んで座った。開口一番、片桐が申し上げた。
「あの後、何か有りましたか」
そっと彼の様子を窺うと指が震えて居る。良くない兆候だと思った。
「疲れたので、母上から聞きなさい」
そう仰って、本当に疲れた様子で目を閉じられた。重病人にはさぞかし辛い一日だっただろうと拝察してしまう。
片桐の母上は宮城にいらしたが、ご自分からは発言をなさらなかった。片桐の性格はこの御母堂に由来するのだろう。
「では、申し上げにくい事を申し上げますね。御二人が出て行かれた後、陛下と絢子様は御予定が御有りになられるので席を外されました。その後は……加藤様には申し上げにくい事ですが、加藤伯爵夫人が私達の愚息のせいでこのような事態に成ったと一方的に仰られて。我が家にも抗議の書簡を遣わしたのに、弁明の手紙を出さないのはどういう事かと御立腹のようでしたが……。我が家にはそのような書簡は届いておりませんし……正直何と申し上げて良いものかと二人して加藤伯爵夫人の立て板に水の抗議をお聞きするしか有りませんでした」
抗議の手紙……それは自分がシズさんに頼んで、片桐家に届かないようにしたものだろう。それに母の自分勝手な性格は良く分かっている。陛下に盾突くことはよもや無いだろうが、社交界の席などで、片桐夫人に嫌がらせをしかねない。
「私の不徳の致すところです。確かに片桐君には特別な気持ちを持って居ます。しかし、懸想したのは私からで、彼は其れに応えてくれただけです」
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