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第194話(最終章)

 片桐は恍惚とした表情を浮かべている。 「悪いが、屋敷の様子も気に成るので、今日のところは帰るとする。続きは近い内に」  その言葉に片桐は表情を一転させた。 「晃彦の母上が許して下さると良いな」  切実な口調で言った。 「ああ、鮎川公爵の説得に期待して居る。結果は隙を見て連絡するので待っていて欲しい」 「朗報が有れば良いのだが……。成るべく早く教えて欲しい」  憂い顔のまま片桐は言った。 「電話が使えない時はシズさんに手紙を持たせるようにする。可及的速やかに連絡するので待っていて欲しい」 「待っているから」   無理に微笑しているのが分かる表情で彼は言った。  自分の屋敷に帰るのは全くもって気が進まないが、帰らないと余計に事態が悪化するだろう。  片桐の部屋を出ようとすると、片桐も付いて来た。門まで送ってくれるらしい。 「もう少しの我慢だ。船の中でも英吉利でもずっと一緒に居る事が出来る。それを楽しみにしている」 「オレも楽しみだ。早く出港の日が来ないか一日千秋の思いで待っている」    そんな事を話していると正門に来た。門の中の植え込みでは誰にも見咎められそうに無かったので、しばしの別離の挨拶代わりに口付けをした。  片桐も背中に手を回してくれた。学生服が皺に成るほどの強さで抱きつかれ、別れ難い様子を見せて呉れた。  帰路は知らず知らずの内に足取りが遅くなる。母が鮎川公爵の諭しをもし聞いてくれなかったら…などと考えてしまう。  鮎川公爵の夜会に招待されなければ、この世界では肩身が狭くなるというのは常識らしいので、説得に納得する振りはするだろうが、自分や片桐家に対して風当たりが強く成る事も予想されるので自然に吐息が零れる。  自分や片桐は一月程で日本を離れるから良いようなものの、片桐家の御両親は日本に留まる。母が他人には悟られずに意地悪をするかも知れないと思うと憂鬱になる。  門まで来ると、明かりが落とされていた。御客様が帰り、主人夫婦が休んでいるという意味だ。  門番に門を開けて貰い、玄関まで歩く。今日叱咤されるか、それとも明日か……と暗い気分になる。  玄関の扉を開けてくれたのは若い女中ではなく、マサだった。彼女には恨みがあるのでついつい素っ気無くしてしまう。 「御帰りなさいませ。晃彦様。奥様が御自室でお待ちでいらっしゃいます」  彼女は無表情にそう言った。母がどんな様子でいるか聞きたかったが、彼女とは余計な口を利く気には成れない。今聞いておかなくても、直ぐに分かることでも有るので尚更だった。  頷きだけで返事をすると、彼女は母の部屋に先導した。部屋着に着替えている時間も無いという事かと苦笑が漏れる。

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