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第203話(最終章)

 彼も学校へは行かないと言ったので訪問する旨を伝え電話を切った。そして三條に連絡を取り、帰宅途中に片桐家に寄って貰うように頼んだ。  三條が片桐家に来るのは、学校が終ってからの筈なので、充分二人きりに成れる時間は有りそうだった。  電話を終え、そそくさと外出用の私服に着替える。シズさんには先方に渡すべく、彼女の家系書とこれまでの経歴を書いた書面をしたためて貰っていた。シズさんを待ちながら、英吉利での生活はどの様になるのかを考えて居た。下宿という事になるのだろうか、それとも寮に入るのだろうか。   英吉利でも慣れれば授業程度の英語は理解出来る自信は有る。日常会話は、日本に居る時も努めて夜会などで会う英吉利人と話して来たしそこそこの自信は有った。  多分、片桐はそれ以上だろう。彼も英吉利人を家庭教師として一生懸命学んでいたのだから。  シズさんから封書を受け取り、廊下を歩いて居ると、母に出会った。挨拶の後母は少し寂しそうな顔をなさって言った。 「片桐家へとお出かけですの。道中お気をつけて」 「はい。行って参ります」  片桐家に行く道すがら、百日紅の花の咲き始めている事に気が付いた。夏も近付いて来ているのだと実感する。  片桐邸の門番に来意を告げると、暫く待つようにと丁寧に言われた。いぶかしんでいると、片桐が外出着姿で歩いて来る。  手を上げて挨拶する。彼の顔の笑顔が深くなった。並んで歩き出す。 「晃彦が来ると言うので、本当は門の所で待って居たかったのだが、門番に止められた。だから、来たら直ぐに知らせてくれと頼んでいた」  明るい太陽の光の下で見る彼の顔は明るくて元気そうだった。昨日は良く眠れたらしい。細い体は相変わらずだが、逢えずに居た時のような病的な感じは微塵も無い。その事が喜ばしい。 「そうか……だが、ご子息が門の前に立って居たらおかしいだろう。門番の戸惑いも良く分かる」  そこまでして待ちわびて呉れていたのかと思うと言葉が見つからない程、嬉しかった。 「今日はシズさんの件と招待客の名簿の件で来た。それと、外遊中の寄宿舎がどうなっているかだな……」  自分の気持ちを吐露してしまうと、本来の用件を忘れて片桐に触れたい欲望があふれ出しそうな予感がしたので先に言ってしまった。  使用人達の挨拶を受けながら片桐の私室に入ると、既に冷たい飲み物が用意されていた。  冷たい珈琲を飲んでいると、向かいに座った片桐も同じ事をしている。グラスに口を近づけた片桐の形の良い唇を見てしまうと、もう止まらなかった。そっと近付き、彼の顔を上向かせる。グラスを奪い、唇を盗んだ。  怒っているかと薄目を開けて表情を確認すると、彼は目を閉じて唇の感触を楽しんでいる様だった。微弱に震える長い睫毛が綺麗だった。暫くそうして居ると、躊躇がちに扉が叩かれた。  片桐は現実に返ったような表情でドアを開けに行った。ドアの向こうで使用人と何かを話している。聞き耳を立てるのも失礼なので、窓の外を眺めていると片桐が自分を呼んだ。

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