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第209話(最終章)

 彼との時間を大切にしたかったが、物事には優先順位を付けなくては成らない。 「ああ、そうだな。オレも準備しなければ成らないし……」  そう言った片桐の右手が唇に添えられて居る。  彼の希望を叶えるべく、唇を合わせた。 「この痕が消えるまでにはまた来る」  そう言って、彼の鎖骨の辺りを服の上から指でなぞった。 「ああ、待って居るから」  唇を掠める位に離して会話して居ると、情欲とは違った親近感を抱く。片桐の顔もほころんで居た。  その日からは目の回るような忙しさだった。旅券の発行や健康診断などは優先的にして貰える事には成ったが、それでもどうしても時間が掛かってしまう。荷物も膨大な量に上る。勉学に必要な物、そして向こうの社交界で必要な洋服の数々……、倫敦には有名な紳士服の店が有ると聞いていたが、大学に通いながらその店での一からの採寸は時間的に余裕が無い。片桐と話し合って日本で誂える事にした。送別会の事は三條に任せて後は閑却して過ごし、出席だけしようと思って居た。  その後のホテル宿泊はとても楽しみだったが。  自分の両親は「皇后陛下御声掛の英吉利留学」の噂が社交界に喧伝される様に成ってからは、今までの態度を一変させた。多分、社交界でも羨望の眼差しや賞賛に酔ってしまっているのではないかと思われる。片桐と逢う事も黙認状態ではあったが、認めてくれていた。片桐が自分の屋敷に来る事は無かったが。  その片桐が電話を掛けて来た。  マサが無表情な顔で取り次いだ。内心ではどう思って居るのかは分からないが。 「シズさんの件で話しが有るので、今日そちらにお邪魔しても構わないか」  例の御見合いの話だと予想した。 「ああ、構わない。ただ、本当に来て呉れるのか……」  片桐が最後にこの屋敷に来た時は二人の仲が露見してかなりの精神的打撃を受けた日だ。その日の事を思い出すのでは無いかと危惧した。実際、その後の彼は精神的にも追い詰められていたのだから。当時の事を思い返すと守れなかった自分に忸怩たるものを覚える。 「ああ、もう大丈夫だ。それにこういう話はシズさんと直接したい。晃彦も聞きたいと思って」  彼の声は明るかった。シズさんの縁談が上手く運んでいるのだと直感した。 「そうか、ではシズさんに案内して貰うように玄関に待機させて置くので門番にそう伝えて呉れ。待ちわびて居るから」 「ああ、オレも晃彦に逢いたい」  吐息に似た声で彼は言って電話を切った。  毎日が忙しいが、充実感と幸福感を持った忙しさの為、そんなに苦痛では無かった。片桐と無理やり引き離された時の苦痛に比べればこの様な物は苦痛には感じられない程だ。

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