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第211話(最終章)

 唇を挟み込む様に口付けたら、彼の方から唇を弛めた。次第に接吻が深く成って行く。吐息や舌で思いを伝える様に……。  片桐は首に巻きつけた手を離し、外出用のシャツの釦を第三釦まで外した。  以前から彼の鎖骨の上には自分が吸った後が花の様に咲いている。その紅の色が薄くなるのを彼は嫌って居る様だった。  その紅に誘われる様にして鎖骨の上を強く吸引する。片桐は満足そうだった。  その時、シズさんの遠慮がちの扉が叩く音がした。  片桐は急いで釦を留めた。   声を掛けて五分も経った頃だろうか、シズさんが静かに部屋に入って来る。勿論この様に主人を待たせる事を使用人はしない。シズさんは部屋で行われて居る事、それが具体的には分からなかったに違いないが、その現場に踏み込む無礼さを慮っての事に違いない。  片桐は紅色の頬を冷ます為かシズさんから顔を背けて言った。 「晃彦、洗面台を借りたいのだが」  快諾すると、静かにさり気無くシズさんと顔を合わせない様にと洗面台に消えた。  シズさんは無表情ながらも、幽かに微笑を浮かべてお茶とお菓子の用意をして居る。  片桐が前髪に水分を滴らせて戻って来た。顔を洗って来たに違いない。  そんな様子を微笑ましく思って見て居ると、シズさんは自分の顔を見て微笑を深めた。  片桐は、顔を洗って気を引き締めたのだろうか、いつもの表情に戻って居た。 「シズさんの経歴を先方に見せた。まずはシズさんの筆跡が達者な事、次に他人に仕える仕事をして居る事で先方は気に入って呉れた様だ。 『開業師なので時間の余裕が無く、御返事が遅れた事をお許し下さい。今のお仕事は、高貴な方にお仕えしてらっしゃいますが、もし、私と沿って下さるならば、付き合う相手は貧乏人ばかりになります。実際、家計は苦しいですし。それでも宜しければ一度会って下さいませんか。 勝手に決めて申し訳有りませんが、銀座のカフェ・インペリアルで明後日お会いしたいのですが』 との事だった。先方も忙しい身の上なので、もし急患が運ばれて来たら、シズさんは待ちぼうけになって仕舞う。だからカフェ・インペリアルはゆっくりと座って居ればいいので最適だと思う……。シズさんはそれで良いかを確かめに来た」  カフェ・インペリアルは銀座の有名な店だ。下手に座敷を取ると、もし先方が急に患者の容態が急変したり、急患が運ばれて来たりした場合、座敷でぽつんと待って居なくてはならない。その点、カフェなら1人でも時間は潰せるし、急患で手が離せない場合にも、店に電話を掛けると取り次いで貰えるだろう。それにカフェ・インペリアルはブラジル珈琲と洋菓子を食べさせて呉れる店だ。雨後の竹の子の様に出来た女給との出会いを楽しむいかがわしい場所では無い。  相手の心遣いに好感を覚えた。

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