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act.3 まだしばらくは今のままで

「なぁ……今日お好み焼きして」  おはようの挨拶もせずに隣の席に乱暴に腰を下ろした渉が、不貞腐れた顔で呟く。 「……根にもっとったんかい。……ちゅうか、昨日颯真と今藤と行ったんちゃうんか」 「だって稔のお好み焼きが一番旨いって知ってるのに行く訳ねぇじゃん」 「……ホンマにお前は……」  無防備にたらしこみやがって、と胸の中でだけ文句を言ってみる。全く、天然人たらしほど恐いものはない。 「別に昨日の材料そのまま使うだけやし構わんけど。お前今日バイト違うんか」 「…………知ってるよくそぉ。お好み焼き食いたい……」  大学1年の冬から始まった二人で晩ごはんを共にする習慣は二人ともバイトがない日と決めていて、だからバイトの予定は共有されている。  ぐぬぅ、と机に突っ伏して悶える渉の頭をぱふぱふと叩いたら、 「何時に終わるねん」 「…………22時」 「しゃあないな。待っといたるわ。昨日約束反故にしたんオレやしな」 「ぃやったぁ~」  ガッツポーズで立ち上がった渉を、恥ずかしいから座れ、と引きずり下ろして頭を(はた)く。 「お前は小学生かホンマに。たかだか晩飯が食べたいもんになっただけではしゃぐな」 「だってさぁ、稔のお好み焼きがマジで一番好き」 「……さよか」  今の『好き』はお好み焼きに対する好きやぞ、と自分に言い聞かせながら、複雑な想いに歪む唇を隠すべく渉から顔を逸らしたのに。 「なんだよ、ホントだぞ?」  ニコニコと笑う渉がにゅんと近づいてきて、内心オタオタしたながら渉の頬を手のひらで押して遠ざける。 「……近いねん」 「なんだよぉ照れてんのか?」  せっかく顔を遠ざけたのに、このこのぉ、と無邪気に脇腹をつつかれて目を白黒させるしかない。あの時のようにトイレに駆け込むのは御免だ、と浅い呼吸を繰り返して必死に冷静さを保ちながら、えぇ加減にせんかい、と拳を固めた時だ 「──おはよ、今朝も仲いいね」 「おはよぉ颯真! 今日さぁ、稔がお好み焼きにしてくれるって!」 「そっか、良かったじゃん」  ニッコリ笑って後ろの席に腰かけた颯真の方へ体ごと向き直ってお好み焼きへの想いを滔々と語る渉の姿を、横目で見ながらそっと溜め息を吐いた。 (心臓に悪い、ホンマ……)  まさか昨日エミが立てたフラグがイキナリ回収されてしまうのかとヒヤヒヤしてしまったではないか。  ぐったりと頬杖をついて渉と颯真の会話に耳を傾けながら休憩していたら、今藤も合流していつものワイワイした空気が作られていく。 「なぁなぁお好み焼きパーティーする!?」 「こだわるなぁそれ」 「なに、そんな旨いの?」 「旨い。最高」 「……でもお前今日22時までバイトやろが。さすがにそんな時間からパーティーとか近所迷惑やし、違う日ぃにせぇ」  素っ気なく却下したら、ちぇっ、と拗ねて唇を尖らせたものの 「じゃあ今度! 今度絶対しよう!」  すぐに元気にそう笑う。コイツは本当に表情が豊かだ。それに釣られたようにみんなが笑うのもしょっちゅうで、ムードメーカー的な存在でもあるから余計に惹き付けられるのだと思う。 「分かった分かった、今度な」 「そんでさ、そこに颯真の彼女連れてきたらいいじゃん! 稔もエミ連れてきてさ! エミも今度呼んでって言ってたけど、女の子一人ってやっぱ可哀想だし」 「えぇ……いいよ、それは。……エミがいたって初対面てことには変わりないんだし。……人見知りするタチだからそういう場所には呼びません」  キッパリと断った颯真にまた口を尖らせた渉が、机の下で床を蹴りつける。 「ちぇ~っ。颯真の彼女だから、きっと可愛いんだろうなぁ。いいなぁ」 「昨日からどしたのホントに」  苦笑いしながら首を傾げる颯真に、だってさ、と不貞腐れた声で呟いた渉がイジイジと続ける。 「稔はエミと付き合ってる訳じゃん? 颯真も彼女いるし。なんかさ……例えば予定とかが被ったらさ、彼女を優先するんだろうなぁって。……思ったらさぁ……なんかさ~……淋しいなぁって」  まるで幼児の駄々のような渉の呟きに 「別にエミとは付き合ってへんぞ」  思わず放ってしまったその一言に、渉が目を剥いて食いついてくる。 「っ、はぁ!? どういうことだよそれ!? おまっ……おまっ……お前はエミ(友達)とでもエッチすんのか!!」 「あほかっ! 声がデカイねん! そんなんやからいつまで経っても童貞なんじゃボケ!」  べちこん、と勢いよく頭を(はた)き下ろす。しかも『エッチ』ってお前は小学生か、と心の中で付け足しながら、うるさい口をぎゅうぎゅう抓り上げた。 「いひゃい! ふぁなへ!!」 「エミとはただの友達やし、することしたかどうかは想像に任せるけど、友達とはせぇへんぞ」 「わふぁっふぁ! わふぁっふぁはら! ふぁなふぇっ」  意外にモチモチとよく伸びる口から指を離して、いてぇ、と両手で頬を撫でる渉を睨む。 「だいたいな、相手の合意がなかったらすること出来へんねんから、勝手な想像でやいやい言うな。エミにも失礼やぞ」 「わぁかったよぉ、……いてぇ……」  痛みで涙目になりながら上目遣いでごめんと謝られてモゴモゴする。別に、と呻くように吐き捨てたら、渉からそっと視線を外した。  その先にいた颯真が意味深な笑みを浮かべていたけれど、気付かなかったフリで視線を俯けた。  *****  夜遅いんやから来るとき騒ぐなよ、と念押しされていたこともあって、稔の部屋の前に着いたタイミングで電話をかけた。 「あ、もしもしオレ~。今家の前」 『お~、ちょぉ待て』  それだけでプツリと途切れた通話のすぐ後にドアが開く。 「お疲れさん」  ニヤリと笑って出迎えてくれた稔に、おう、と返して勝手知ったる他人の家とばかりにズカズカと家の中へ入る。 「ふわぁ、やべぇ。めっちゃいい匂いする。腹減ったぁ」 「分かっとる。手ぇ洗てこい手ぇ」  呆れたような顔をしながら笑った稔に洗面所へ連れ込まれて、思わず笑ってしまった。 「相変わらずオカンだな。つーか稔って見た目最近の若者なのに、食べることに関してだけめちゃくちゃマナーうるさいよな」 「あぁ……親父が料理人やからな。なんや懐石とかそういう感じのとこ」 「ぇ!? なに、稔ってボンボン?」  テレビで紹介されるような老舗の店構えを思い浮かべて手洗いの水を撒き散らかしながら稔の方を見れば、 「お前の考えてることなんかお見通しやけどな、老舗の息子とか(ちゃ)うから、興奮してそこら辺ビシャビシャにすんな」  掃除さすぞ、と呆れ半分諦め半分の顔に睨まれた。渋々顔を戻して手洗いを再開する。 「懐石って言ったらさ、政治家とかが袖の下渡したり、舞妓さんと遊んだり……」 「お前のその偏った知識はいつの時代に手に入れたんや。昭和か。……懐石言うても、なんや……プチ贅沢? に使えるみたいな。ちょいカジュアル目のとこらしいで。あんまよぉ知らんけどな」 「行ったことねぇの?」 「さすがに敷居が高いわ。いくらプチ贅沢のカジュアル目言うたって、百貨店のレストランフロアの一角にあるような懐石の店、怖ぁて行けるか」 「奢ってもらえばいいじゃん。親父さんいるんだろ?」 「あほ。オレみたいなイマドキの学生が一人で行ったら浮くわ」 「じゃあオレが一緒に」 「お前は絶対連れていかん。いちいち騒いで悪目立ちしそうやからな」  しかめ面でそう呟いた稔が、会話を切り上げるようにぽいっとタオルを投げてくる。慌てて受け取って蛇口を締めた。 「えぇから(はよ)せぇ。オレも腹減っとんねん」 「なんだよ、食うの待っててくれたのか!? お前ってホントいい奴だよな!」  後ろから飛び付いたら、よろめきながらも踏ん張った稔に(はた)かれた。 「せやから危ない言うてんねん」  *** 「うンめぇ~。……やべぇ、腹減ってた分、いつもよりも旨い~」  やたら感動しながら、まるでリスかハムスターのごとくもぐもぐとお好み焼きを頬張る渉に、お茶を注いで出してやる。 「……誰も盗らんからゆっくり食え」 「だって腹減ってんだもん」 「分かっとる。喉詰めんなよ」  こう美味そうに食べてもらえると、好きだの嫌いだのに関係なく嬉しいものだ。──だからこれは、別に友人関係でもおかしくない感情だ。  そんな風に自分の心に微妙に蓋をしたり目を逸らしたりしながらこの関係を続けて、そろそろ1年半くらい経つだろうか。渉から晩ごはんを一緒に食べればいいじゃないかと提案された頃は、まだ本当にただの友人関係だった。  同じ釜の飯を食った仲とか言うけれど、二人きりでの食事を重ねて、大学でも行動をともにすることで自然と惹かれていったのだと思う。いつからという自覚もないまま、気付けば渉に対して友情では片付けられない感情を抱くようになっていったのだ。  恋なのだとはっきり自覚した時に、せめて二人きりで食事をするこの時間だけでもやめた方がいいのではないかと悩んだこともある。この天然人たらしな童貞は、人との距離がやたら近い。  やたらベタベタ触られる、肩を組まれる、抱きつかれる、無防備に家に来て寝泊まりを繰り返す……等と挙げ始めれば切りがないほど、理性を試される場面が多々あった。  人の目があればまだ堪えられる。けれど、家で二人きりの食事の場は自分でひたすら堪えるしかない危険極まりない状況だ。  万が一酒が過ぎて、朝起きたら二人とも素っ裸でヤることヤッてたらしいですが記憶はありません、なんて展開を迎えてしまったら目も当てられない。──こっちがそんな風にヤキモキして不自然にならない程度に食事の回数を減らそうとしたのに、この食い意地の張った天然人たらしは約束もなく家を訪ねてきては飯をねだるようになったのだ。  一人で飯食うの淋しいじゃん、と笑った渉に、お前はガキか、と断って帰らせることも出来ずに家に上げてしまった自分もまた、危機感より淋しさが勝ってしまったのだから子供だったのだと思う。  結局のところ酒に強くなるという解決策にもなっていないような手段で乗り切ろうとしているが、 「な~ぁ~、稔~」 「……なんや」 「今日泊まってっていい?」 「…………」  こんな風に不意打ちで、しかも上目遣いでねだられて──堪えた自分を誉めてやるしかない。動揺の名残を呆れに似せた溜め息で逃す。 「……ホンマにお前は」 「だって帰るの面倒くせぇんだもん」  ふわぁ、とあくびをする渉の皿は既に空だ。こちらがつらつらと想いを馳せている間にも黙々と食べ続けていたのだろう。 「しゃあないやっちゃな。……朝ちゃんと自分で起きろよ」 「やった、サンキュ」  へへへー、と小さな子供のように笑った渉が、こてん、と机の空いていたスペースに頭を載せる。 「ここで寝んなよ」 「わかってる」  むにゃむにゃ呟いたくせに、そのまま眠ってしまうのは最早デフォルトだ。 「……くそ」  幼い顔付きで眠る顔は、恐ろしいくらいに可愛い。渉の寝顔から視線を無理やり引き剥がしたら、残っていたお好み焼きを全部頬張った。  さっさと後片付けをして寝てしまった方がいい。風呂にはもう入ってあるし、このまま食器だけ洗ったらベッドに入ろう。  そう決めたらモガモガとお好み焼きを飲み下して、二人分の食器をまとめてキッチンに向かった。  *****  枕元のスマホの着信を知らせる振動に、瞼を抉じ開けた。大して明るくもない室内なのに、光が目に染みて痛い。あぁ、風邪だなと他人事のように思いながら重たい腕をのそのそと動かしてスマホを手に取って、ディスプレイに表示されたメッセージのアイコンをタップする。 『どこにいんの』  それだけ書かれたメッセージは、悪友からだ。 『風邪ひいた』  痛む頭と開かない目のせいでそれだけ打つのが精一杯で、送ったら力尽きて目を閉じてしまった。その後、うるさく連打されるチャイムの音に目を覚ましたのは、陽も高く上った昼時だった。  目を閉じてから一瞬しか経っていないと思っていたのに、随分深く眠り込んでいたらしい。ほんの少しだけ軽くなったような気がする体を引きずってインターホンの受話器を上げた。 「はい」  寝起きと風邪のダブルパンチで掠れきった声でぶっきらぼうに放ったら 『うわ、なんだその声。別人じゃん』 「……渉?」 『おう。午後の講義ぶっちぎって来てやったんだぜ、ありがたく思えよ』 「なんじゃそ、ら、ッゲホッ、っ」  尊大な物言いに扉の向こうでドヤ顔しているであろうことが簡単に想像出来て、くつくつと喉の奥で笑いが零れたら咳が誘発されてしまった。 『おいっ、大丈夫かよ!? ちょ、早く開けろって!』  繋がったままのインターホンから焦ったような声が聞こえてきて、命綱かのようにしっかりと受話器を握り締める。 「だい、じょぶ、やし……きょっ、は、か、えれ」 『ばっ、こんなん聞かされて帰れっかよ! 開けろ!』  咳の合間に呟いた台詞には当然のように拒絶が返ってきて、さらにはドンドンとドアを叩く音も追加された。渉の性格上、開けるまでは続けるだろうことが簡単に予想できて、ご近所さんへの体裁も重んじれば開けるより他なかった。 「……よかった、生きてた」 「──っ」  開いたドアの向こう側に、涙目の渉の顔がどアップであった。  いつもなら自分より頭1つ分低い場所にあるはずの渉の顔が、ヨロヨロになって背を屈めている今、いつになく近くなっているのだと気づいてギクリと胸が跳ねる。  そんなこちらの動揺など気にもとめない渉は、こちらの力が入らないのをいいことにグイグイ押し込んできて、結局玄関の中へ入られてしまった。 「お前、ひっでぇ顔色だな。飯食ったのか? 薬とかは?」 「さすがに飯作る気力ないし、薬買いに行く元気もなかったわ」 「だろうと思ったんだよ」  ふふん、とドヤ顔をキメて笑った渉が、ずい、と大きめのビニール袋をこちらへ突き出してくる。どうやら近所の大型スーパーのレジ袋らしいと気づいた。 「レトルトのお粥とか買ってきた。……後、スポドリとか。薬は買ってこなかったから、後でちょっと買いに行ってやるよ」 「……すまん、助かる」 「おぉ、どうした殊勝だな」  ニヤニヤ笑った渉が、けれどそのニヤニヤ笑いを意外なほどすぐに引っ込めて、ほらほら、とオレの背中を押した。 「病人は寝てろ。勿体無くもオレ様が甲斐甲斐しく世話をやいてやる」 「……アホ、何様じゃ」 「だから、オレ様だって」  ぐい、と親指を立ててキメ顔をして噎せるような咳を誘発する迷惑な見舞い客を、けれど追い返す元気も──気持ちもなかった。病気で気弱になっているせいだと思いたかったけれど、これで見舞いに来てくれたのが例えば今藤や颯真だったら……きっと感染(うつ)るから、と早々に帰したと思うのだ。たぶん、渉だからきっと追い返さなかったし、来てくれてホッとしたのだと──。  布団にやや乱暴に投げ込まれた後、やけに優しい手付きで胸の辺りをポムポムと叩かれて寝かしつけられながら、とりとめもなくそんなことを思っていた。 「──稔。起きれるか?」  落ちるように眠ってからどれくらいの時間が経ったのか。遠慮がちな声と優しい手のひらにピタピタと頬を叩かれてうっすらと目を開けたら、無防備なまでに近い渉の顔にまた胸が跳び跳ねるから体に悪い。 「飯出来たし、薬も飲なきゃだろ。薬、買ってきたから」 「あぁ……すまん、ありがとう」  よいしょ、と体を起こした拍子に額がひんやりと涼しくなる。そういえばなんとなく何かが触れているようなと手を伸ばしたら、冷却シートが貼ってあった。  意外なまでの細やかさに感動しながら、朝よりも随分と真っ直ぐ歩けるようになった足で、ゆっくりと机の前に腰を下ろす。  レトルトを温めただけらしいお粥とレトルトらしい卵スープに、スポーツドリンクのペットボトルが並んで置いてある。机の隅っこには買ってきてくれたらしい風邪薬も並んでいた。 「……いただきます」  しみじみ有り難く手を合わせてスプーンを手にお粥を一口。薄味だが、食べられないことはない。レトルトは下手に味を足すのも危ないときがある。 「そうだ、リンゴもあるんだぜ~」  オレが黙々と食べるのを見守っていた渉が思い出したように呟いて、パタパタとキッチンに走ってリンゴを手に戻ってきた。 「お前……丸かじりせぇとか言うんちゃうやろな……」 「……あ~、やっぱり?」  てへ? と可愛くないテヘペロ顔を見せられて、その不格好さにまたしても咳き込んでいたら、分かったよぅ、と渋々キッチンへ向かった渉が包丁を持って戻ってくる。  包丁を右手に、左手にリンゴを持ってじぃっと見つめた後、よし、と意を決した声で気合いを入れた渉が、ギコギコと音を立てそうなほどぎこちなくリンゴに包丁を入れた。 「お、まえ……不器用なやっちゃな。……借してみ、危ないわ。お前にそんなことやらせたオレが悪かった」  不器用な手付きにハラハラしながら、思わず手が伸びるオレに 「るせっ、いいからお前は大人しくしてろ」  真剣な目付きで手元のリンゴを睨み付けて、ぎこちなく包丁を動かしたまま、こっちも見ずに怒鳴ったアイツは 「……っ、どーだ!」  可食部を随分と皮に持っていかれながらも、いびつなウサギを作って手渡してくれる。  その勝ち誇ったような顔と小さくていびつなウサギとのギャップが面白すぎて、盛大に吹き出してしまった。 「おまっ、こっ……っぁははは」  苦しい息の下でありがとうと掠れた声で呟いたら、アイツは憤りながらもぐいっとリンゴを押し付けてくれた。 「笑いすぎだっつんだよお前は。ホント失礼なやつだな」  怒っていた声は、次第に呆れ声に変わって 「ま、そんだけ笑えるくらい元気になってくれたなら良かったよ」  不意に驚くほど優しい顔をして柔らかく呟くから、長引いていた笑いの発作を止めてまじまじと渉を見つめた。 「………ありがとさん」 「それにしてもお前、よぉこんなんで一人暮らし出来てんな。飯どないしてんねん?」  時間をかけすぎて生暖かい小さなリンゴウサギをしみじみと見つめながら言えば、渉はきょとんと首を傾げた。 「コンビニだってあるし、バイト行きゃまかない出るし。ガッコ行けば学食あんじゃん。なんとでもなるよ」 「休みの日ぃはどないしてん?」 「だから、コンビニあるって。カップラーメンとかもあるし。レンジでチンすりゃ食えるやつもいっぱいあるぜ?」 「体に悪いやろ、そんなもんばっか食うてたら」  眉を寄せて呟いたら、じゃあさ、と渉が無邪気に笑う。 「作ってくれたらいいじゃん」 「は?」 「お前が、オレの分も作ってくれたらいいじゃん、って」 「なに言うて……」 「で、一緒に食えばいいじゃん」  まるで自分が良いことを言ったとでも言いたげにニカッ笑った渉をまじまじと見つめる。 「それでいいじゃん。お前だってさ、一人で食うより二人で食う方が楽しいだろ?」 「…………」 「な?」  相変わらずにかっと笑ったままの渉をしばらく呆然と見つめた後、やれやれと呆れた笑いが零れた。 「……しゃあないな。風邪が治ったら飯作ったるわ」  *****  懐かしい夢をみたのは半生殺し状態でうつらうつらしていたせいだろうか。  後片付けをしてベッドに入ろうとしたものの、机に突っ伏したまま寝かせておいては翌日に支障もあるだろうと、純粋な親切心で渉を床に転がしてやったのがまずかった。  うん……、と。  渉の口から零れた吐息にぞくりと背中を走ったのは、紛れもなく欲情からくる震えだった。  誘うようにうっすらと開いた唇。もともと髭の薄い渉の顔は、夜になっても無精髭すら見当たらずにすべすべしている。日頃から童顔を気にするその顔は、寝顔となるとますます幼い。うにゃうにゃと何かを呟いて動いた唇は、まるで自分を誘って睦言を呟いているかのようにさえ見えてしまって── 「……ッ」  ハタと我に返ったのは、唇を塞ぐ寸前だった。ふんわりと漂ってきたお好み焼きの匂いに助けられた。 (…………あかん。もう二度と泊めん……。……泊めたとしても、オレより先に寝かせん)  先に寝るなとか関白宣言か、と頭を抱えてセルフツッコミを入れたら、ぐじゃぐじゃと頭を掻き乱しながら深呼吸を繰り返して冷静になれよと言い聞かせる。  春先のまだ肌寒い季節であることを心配して渉に毛布をかけてやって、なるべく渉を視界に入れないようにベッドに潜り込んだのに。  目を閉じたら渉の唇が誘うように蘇ってきて、情けなくて泣きたくなるほど欲が湧いてくるのだ。  とはいえ近くに友人がいる状況で処理をする訳にもいかずに、悶々と布団の中で長くて辛い時間を過ごすハメになってしまった。  寝不足で重く痛む頭を軽く振りながらベッドの上で体を起こす。時刻はそろそろ6時になろうとしていた。  今日はお互いに1時限目から講義がある。まだ起きて準備を始めるには早い時間だが、渉を一度家に帰さなければならないのだし、丁度いい。  わざと大きめの音を立ててベッドから降りてキッチンに向かう。軽い朝食くらいは食べさせてやるかと冷蔵庫を漁っていたら、 「んぅ? …………あさ?」  こしこしと目を擦りながら、むくりと渉が体を起こした。 「うわ……体いてぇ……」 「だからそこで寝るなて言うたやろ」  バキバキと骨を鳴らしながら腕や首をグルグル回して、眠かったんだよぉ、と拗ねた渉が最後に大きな伸びをする。ちらりと覗いた薄くて白い腹が目に眩しい。 「パンぐらいやったら焼いたれるけど、食うて行くか? お前いっぺん帰らんとガッコ行かれんやろ」 「食う食う! やったぁ! 朝飯~」  両手を上げるガッツポーズの後にぴょんと軽やかに立ち上がった渉が、ペタペタとキッチンに走ってきて無邪気にまとわりついてくる。 「ほーんと、お前っていい奴だよなぁ」  上機嫌な渉の頭をぐいと突き放しながら、ぴょんぴょん跳ね散らかした髪をツンツンと引っ張ってやる。 「呑気なこと言うとるけど、寝癖えらいことなってんぞ。鏡見てこい」 「ぎゃっ、マジかっ」  軽く跳び跳ねて驚きを表現するコミカルさに呆れながら、洗面所にダッシュする後ろ姿を見送って溜め息をひとつ。 「ホンマに呑気なやっちゃ……」  無防備に抱きつきやがってとぼやきながら、むくむくと大きくなろうとした息子を必死で宥めた。

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