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act.5 千丈の堤も蟻の一穴から

「あ、……ぁのっ…………あのっ……っ、はせがわ、さんッ」 「? はい?」  震えた声に呼び止められてキョトンと振り返ったら、頬を真っ赤に染めた女の子が立っていた。 「何?」 「そのっ…………その……──すき、です」 「ふぇっ!?」  驚いてまじまじと見つめ返した先にいるのは今にも泣き出しそうな顔で縮こまっている、たぶん年下の女の子だ。 「ずっと、……好きだったんです……」 「ぇと……、……オレ?」  驚き過ぎて聞き返す声は、内心の動揺を抑えきれずに揺れて高い。 「……よかったら、あの……連絡くださいっ」 「あ、ちょっ……」  小さな薄い紙を押し付けたてきたその子は、脱兎の如く去っていってしまった。  姿が見えなくなってしまってから、押し付けられた紙に目を落とす。どうやら自分で作ったらしい可愛い名刺で、連絡先もちゃんと書いてあった。 「ぉぉぉぉぉっ!?」  今さら震えが来て名刺を取り落としそうになりながら、ぐっと拳を握る。 「っしゃ、キター!!」  今すぐ食堂に集合! とみんなに連絡したのに、返ってきた返事は、今から授業、だの、まだ家、だのやる気のないものばかりだった。 「んも~、使えねぇ!」  今さらバックバックと心臓が揺れて苦しくなってきた。このまま死んだらどうしようと身悶える。 (顔はあんまりちゃんと見えなかったけど、真っ赤になってて可愛かったなぁ~)  一生懸命に告白されたことが何よりも嬉しくてむず痒い。うわぁ、と喜びに声が零れて足をジタバタ動かす。  もう二度と可愛い紳士なんて言わせないぜ、とニヤニヤしながら思い浮かべつつ、あれ? と首を傾げた。  そうなると、稔と二人の晩ごはんは中止になるのだろうか。だって彼女が出来るのに、彼女を放ったらかして稔とご飯というのもおかしい。  それはそれで淋しいな、と思いながらも浮かれた心がソワソワして、まぁしょうがないよな彼女大事だもんな、と結論付けることにした。  *****  今すぐ食堂に集合! なんてメッセージが届いて、今度はいったい何事かと正直バカにしていたのは事実だけれど。 「コクられたぁ!? うっそマジかよ」 「マジだよマジ! 名刺もらった!」  まさかこの展開は、予想もしていなかった。  あんぐり開いた口を閉じることも出来ないまま、異様に盛り上がっている今藤と渉の二人を見ていることしかできない。 「口、開いてる」  つん、とオレの肩をつついた颯真は、心配そうな顔でこっちを見ていた。  ふるりと頭を振って颯真の視線から逃れる。 「…………付き合うんか?」 「えっと……うん? たぶん?」 「……なんで疑問系やねん」 「だってよく知らない子だったし。たぶん年下と思うんだけどさぁ」 「名刺もらったんだろ? 名前は?」 「これこれ。……でもさ、あんな一生懸命に告白されちゃったらさ、……なんてかさぁ、可愛いなぁって思うよ」  ぽや~んとした浮かれた顔でムフフと笑う渉の表情を、これほど憎いと思ったことはない。握りこんだ拳がギリギリと音を立てるような錯覚さえする。 「──やめときなよ、そういうの」 「……ぇ?」  怒鳴る直前だった。  静かに諭す颯真の声でハッと我に返る。ツキツキと痛む手のひらをそっと開いたら、爪が食い込んだ痕がクッキリと残っていた。 「好きでもないのに、付き合わない方がいいよ。……傷つけるだけだよ」 「……なんだよぉ。颯真だってさぁ……」 「だからだよ。なんにもいいことないよ。せめて友達からとかにしといた方が絶対いい」 「…………でもさぁ……」 「渉はその子のこと知らないんだよね? 向こうは向こうで渉のことどのくらい知ってるの?」 「……それは……」  真っ直ぐな目で渉を見つめている颯真自身が痛そうな顔をしていることに、わざとらしく視線を外した渉はきっと気付いていない。 「稔だってさ! 稔だって、色んな女の子と付き合ってるじゃん!」 「……──あほ。オレは双方合意の上で一晩しっぽり温め合っとるだけじゃ」 「そっちの方が悪くない!?」 「合意の上や言うとるやろ」  あろうことかこっちに話を振ってくるから、若干苛つきながらもいつも通りを装って放つ。不満そうな渉をシレッと無視して、頼んでおいたうどんを啜った。リアクションにムッとしたらしい渉が黙り込んで、辺りの空気が重くなる。  早く食べて早くこの場から去ろう。そう決めたタイミングで今藤が、あぁ、と口を開いた。 「オレこの子知ってるわ」 「えっ!? マジで!? なんで!?」 「わっ、ちょっ、……落ち着け」  ややオーバー気味なリアクションで今藤を揺さぶる渉は、どちらかと言うと颯真の言ったセリフからは目を逸らしていたいのだろう。いつもより強張った表情をして、硬い声を無理やり弾ませている。  そんな渉を見ていたくなくて黙々とうどんを啜りながら、煩く打ち鳴らされる早鐘を止める術が見つからなくて息苦しくなる。  早く──今すぐ、ここから立ち去りたい。 「……稔?」 「っ、ぐふッ、……ェホッ」  颯真の心配そうな呼び掛けと、うどんを詰まらせて噎せたのはほぼ同時だった。 「わっ!? ちょっ、大丈夫!?」 「ゲフッ……ッ、ぐ、……っぇフッ」 「オレ、布巾取ってくる」 「水飲め、水」  わたわたと動いてくれる友人達を生理的に滲んでしまった涙の向こうに見つめつつ、何かが音を立てて壊れていく気配がしていた。  *****  話があるんやけど、と稔に呼び出されたのは、例の彼女に告白された翌日のことだった。  珍しく食堂以外の場所を待ち合わせ場所に指定されて、着いたら稔は既にそこで待っていた。 「悪い、遅れたか?」 「いや……オレが(はよ)着いただけや」  首を横に振る仕草がいつもよりも緩慢で、どうしたのかとよくよく見た稔の顔は酷く疲れているようだった。 「どうしたんだ? 体調でも悪いのかよ?」 「……あぁ……ちょっと寝不足でな」 「大丈夫か? めちゃくちゃ顔色悪いぞ」 「大丈夫。話終わったら帰るし」  それより、と呟いた稔は、口を開きかけては閉じるのを何度も繰り返して躊躇った後、結局横を向いたまま口を開いた。 「……昨日、言うとった、その……コクられたやつ。……どないすんねん?」 「あぁ、……うん。付き合おっかなぁって思ってる。今日、一限終わったら会う約束したんだ。……颯真の言ってたことも正しいと思うんだけどさ。やっぱさ、あんな風に言ってきてくれた子をさ、無下には出来ないって」 「そうか……」  頬を真っ赤にして俯いていた姿を思い出すだけで、未だに心がソワソワ浮き足立つ。 「……話って、それか?」 「いや……ちゃう……」  やるせなく首を横に振った稔が、また何度も躊躇う仕草を見せる。いつにないその姿は、こっちの心まで落ち着かなくさせた。 「どうしたんだよ? なんか変じゃね?」  そわそわしながら尋ねたらようやく真っ青に強張った顔を上げた稔が、オレを真っ直ぐに捉えた。 「オレ、お前のこと好きやねん」 「なんだよ、言いたいことってそんなことか? オレだって好きだよ」  何言ってんだよと笑ったのに、稔は声を絞り出すように、ちゃう、と呻いた。 「そういうのと、違う」  ゆっくりと首を横に振った稔が、オレの胸ぐらを掴んでぐいっと引く。妙に近くなった顔を何事かとまじまじと見つめていたら、ぐぅ、と喉の奥で呻いた稔が、泣き出しそうな顔で睨み付けてきた。 「キス、……してまうぞ、このまま」 「ぇ……?」  キョトンと聞き返す。  今、稔はなんと言ったのだろうか? キス……? 恋人同士がする、あのキスのことか? 男同士なのに? 「そういう意味や」  言葉の意味を理解するより先に、稔がそう吐き捨てた。  稔の暗い目は、オレを真っ直ぐに捉えている。──このまま食われるんだと、錯覚するほど強くて暗いその視線に背筋が凍った。 「っ、だ、って、……オレら、男同士だし……っ」 「そぉや、男同士や」 「だったら……ッ」 「そんなん、オレが一番よぉ分かっとぉわ。せやけど、しゃあないやんけ。好きなもんは好きやねんから」  まるで何かを嘲笑うかのような声だった。  ──こんなにも手酷い裏切りがあるだろうか。  友達だからな、なんて交わしあった訳ではない。それでも、心から大切にしたいと思える親友だったのに。 「い、み……分かんね」  ずっと、そんな風に。  オレのことを女の子みたいに扱いたくて、オレと一緒にいたということだろうか。  実際女の子相手にすらしたことのない、AVで見たような──あんな風なことを、オレにしようと、したいと思っていたのだろうか。  本能からくる怯えに体が震える。 「オレは……オレは、友達だと思ってたよ、お前のこと」  手加減なしながらも友情を感じられるツッコミや、優しく頭を撫でてくれた手のひらや、友達だからこそ遠慮のない会話の数々や、二人きりの食事も。  全部、オレを、女の子みたいに扱いたくてやっていたことなのだろうか。 「お前は違うかったってことか」 「…………友達や。そうや、友達や。知っとるわ、そんなもん」 「だったらなんで!」 「しゃあないやろ、好きになってもぉたんやから」  泣きそうになりながら睨み付けたのに、何かを諦めたみたいな表情で嗤った稔がゆっくりと首を振った。 「オレやってずっと思てたわ。……お前は友達やって。……こんな好き、迷惑になるだけやって……ずっと思てたわ。せやけど、消せへんかったんや」  絞り出された苦しそうな声が耳に痛い。  なんだよ。オレのこと女の子扱いしたかっただけのくせに、なんでそんな世界の終わりみたいな悲しい声で笑うんだよ。  ぎゅっと唇を引き結んでとにかく精一杯顔を逸らした。もう、なんにも見たくないし、なんにも聞きたくない。  とにかく早く、この空間から逃げ出したい。  なのに胸ぐらを掴んだままの稔の手の力は、一向に緩む気配がない。今までに取っ組み合いの喧嘩をした時にさえ感じたことのない力の強さに、またも背筋を悪寒が走る。このまま何をされるのか分かったもんじゃない。  とにかく逃げないと。  身を捩っていたら、不意にパッと稔の手が離れた。  反動によろめきながら、稔から離れる。 「……悪ィけどさ……もう二度と、オレに近づくなよ」 「……」  何も言わない稔は、傷ついたように俯いているから。なんでお前が、オレより傷ついてるんだよ、なんて。  ──もっと傷つけてやりたくなった。 「まじで、……きもちわりぃ」 「っ……」  吐き捨てた言葉に息を飲んだ稔の、その震えた肩を見ていられなくて俯く。  傷付けたかったはずなのに、本当に傷付けたら胸が痛いなんてオレはたぶん、バカでお人好しだ。 「…………わかった」  小さな小さな声だった。肯定の返答が胸を刺して、まるで血の代わりみたいに涙が溢れてきた。  分かったってなんだよ。もう二度と近付かないって、そんなこと出来るのかよ。お前、オレと同じ講義もいっぱい取ってるじゃんか。第一、お前は二度と近付けなくて平気なのかよ。また、今までみたいに仲良くしようって……したいって言ってくれよ。  散々我が儘を思い浮かべる間も、稔はもう何も言わなかった。  せっかくの友情を一方的に壊された怒りなのか哀しみなのかも分からないまま、凶悪で獰猛な感情に支配されてフラフラする頭ではそれ以上何も考えられずに。  よろめきながら一歩踏み出したら、転がるように駆け出してその場を後にした。  ***  稔に想いを告げられたショックを消化しきれないままで、彼女との待ち合わせ場所に着いた。到着した時間はまだまだ待ち合わせの時間には早い。  指定したのは、ベンチのある中庭で、普段から人通りがあまりなくて昼寝スペースとして愛用しているお気に入りの場所だった。  とはいえ今日はさすがに眠れるはずもなくて、仏頂面のままベンチに座る。耐えるようにじっと頭を抱えていたら、パタパタと軽い足音が聞こえてきて顔を上げた。 「……早いですねっ」 「あぁ……うん……」 「あそこの窓から見えて……そのっ……走ってきちゃいました」 「そっか……」 「あのっ……あの、連絡、……嬉しかったです」  相変わらず頬を染めて、ニコニコと笑う顔。 「あぁ、うん……」  まだ動揺したままの心では、そんな彼女に何を言ってやればいいのかすら分からないくせに。 「……ごめん」 「きゃっ!?」  ただ、触れたかった。  誰でも良かった。  オレは男で、アイツも男で。なのにアイツは、オレを女の子みたいに扱おうとした。──オレは男なのに。 「あの……はせがわ、さん?」  抱き締めた柔らかくて細くて小さくて、温かくてまぁるい体。──オレはこんな風に柔らかくない。 「ごめん……ちょっとだけ、こうしてて」 「……はい。……わたし、長谷川さんの彼女ですから、いくらでも」 「──渉」 「ぇ?」 「渉でいい」 「……渉さん」  嬉しそうな声が照れたように呟く音。アイツはこんな声じゃない、なんて思った自分を殴りたくなる。  ぎゅうっと力を込めたら折れそうだなんて思いながら、腕の力を抜くことも出来ない。 「あの……渉さん?」  どうしたんですか、と囁くように聞かれて、首を横に振って応えたら。  ふわふわと頭を撫でられて、驚きに顔を上げた。──アイツの手のひらとはまるで違う感触だ。 「ぁ……ごめんなさい、嫌でしたか?」 「…………嫌じゃない。……さんも付けなくていい。……あと、敬語、いらないよ」 「でも……先輩だし……」 「いいよ。だって彼女なんだもん」  友達が名前で呼ぶのに彼女からさん付けで呼ばれるなんておかしい。  そんな決めつけで放った言葉に幸せそうに笑った彼女が 「じゃあ、あたしのことも──って、呼んでくだ……呼んでね、……渉」  はにかんで伝えてくれた呼称は、オレの視線の先に複雑な顔で立ち尽くす颯真に気を取られて耳を通り抜けていった。  *** 「……さっき一緒にいたの、昨日言ってた子?」 「……うん」 「付き合うんだ?」 「…………付き合ってみなきゃ分かんないことだってあるじゃん」 「別に何も言ってないよ」 「……」  彼女を帰らせた後、自分も授業に出るか家に帰るか迷っていたら、颯真に呼び止められて渋々ベンチに並んで腰掛けた。 「……ねぇ。付き合うんだったらそれでいいけどさ。……ホントに、ちゃんと見てあげてね彼女のこと」 「……何それ、どういう意味?」 「そのままの意味。……オレはずっと、誰のこともちゃんと見てなくてフラれてたからさ。大事にしてあげなよ」 「……なんだよそれ、自慢かよ」 「自慢じゃないって」  疲れたみたいに笑った颯真が、イライラしてるね、と呟いてオレの頭を撫でる。その手を、思わず振り払っていた。 「…………渉?」 「ッ……。……ごめん……」  お前もオレのこと女の子扱いする気かよ──。  一瞬そんな風に思った自分は、被害妄想が過ぎるのかもしれない。稔がそうだったからと言って、颯真までそんな風に思ってるかもなんてバカみたいだ。普通に考えたら、男同士なのにそんな風に考えてた稔がおかしいんだから。  自意識過剰かよ、と自嘲気味に呟きながら、 「……ごめん、ビックリしただけ」 「……そう」  ビックリさせてごめんね、と謝った颯真に首を振って見せる。 「……もう行くわ」 「……うん、分かった」 「……彼女出来たからさ…………しばらく、彼女のこと優先する」 「ん……」  入学以来ずっと一緒に過ごしてきた友人への決別のようなセリフを後ろめたい気持ちで吐きながら、これでいいんだと言い聞かせる。  颯真と一緒にいたらそれだけで、稔のことを思い知らされてしまうのだ。  いつもならきっと稔もここにいるのに、なんて。あんなことがあったすぐ後の今でさえ、そんな風に考えてしまうなんて。バカみたいで悔しいじゃないか。  裏切ったのは稔なのに。 「じゃあ……」 「…………お好み焼きパーティーさ」 「っ……?」 「楽しかったね」 「…………そうだな」  じゃあな、と手を振って颯真に背を向ける。  何度も深呼吸して、込み上げる涙を必死で封じ込めた。  ***** 「瀧川~、渉知らね?」 「……どしたの」  稔から、渉をフォローしてやってくれ、と連絡をもらって一限をぶっちぎって渉を探したのに、誰かと抱き合ってる場面に出会(でくわ)して途方にくれてしまった。  いつもより強張った顔をして、何かに逐われてるみたいに追い詰められた目で、まるであの女の子にすがってるみたいだった。  ろくにフォローも出来ないままで見送ることになって、苦味を噛み締めていたところだったのだ。 「どしたのじゃねぇって。昨日渉が告白されたってやつ」 「あぁ……付き合うって」 「マジかよ!?」  音を立てて前の席に乱暴に座った今藤が、遅かったかぁ、と頭を抱えている。 「……なんかあったの?」 「いや……あんまいい噂聞かなくてさ。なんつーの? 男を手玉にとって弄んじゃう系?」 「…………嘘でしょ」 「マジマジ。つるんでる女子もそういうちょっと派手目のやつばっかだしさ。ちょい心配だなと思って」  そっかぁ付き合うのかぁ、とぼやいた今藤を前にズンと心が重くなる。 「マジかぁ……」 「ぉぉ? どした。そんな頭抱えて……」 「もっと強く言えばよかった……」 「いやいや、颯真のせいじゃないんだし。アイツも大人なんだしさ。自分のことは自分で責任持つでしょ」 「……そうかもだけど……」  今の渉はたぶん、いつもよりもずっと不安定だと思う。友達だと思っていた稔に想いを告げられたことは、きっと渉を強く揺さぶっているに違いない。  あんなにも淋しそうで哀しそうな渉の目を見たのは初めてだった。  誰かに救いを求めているだけにしか見えない。誰でもいいなら、せめてそんな悪い噂のある相手ではなくてもっと本当に渉を好きな子だったら良かったのに。  誰かに救いを求めたくなる気持ちは分からないわけではないし、そのこと自体を否定するつもりもないけれど、相手が悪すぎる。  これでは救いにもならないじゃないか。 「……くそ」  せっかく稔が頼ってくれたのに、何もしてやれなかった。 「……瀧川?」 「…………渉。傷付かなきゃいいけど……」 「……あぁ……まぁなぁ。舞い上がってたしな……」  オレはみんなに助けてもらったのに、オレはみんなに何も返せないのかと泣きたくなる。 「大丈夫だって。なんかあってもさ、みんなで飲んで忘れたらいいんだよ。一人じゃねぇんだからさ」 「…………そうだね」  ***** 「で、どうだったの? 渉ちゃんはさ」 「あ~、あれは絶対ドーテー」 「やぁだぁ」  ケタケタと下品に笑う声が響いていることに、きっとアイツらは気付いていない。 「手ぇ繋ぐだけとか幼稚園児かよって感じ。キスもしないとかさ、男じゃないんじゃない」 「やっだ、ドーテーなんだからしょうがないって。なんにも分かんないんだから教えてあげなきゃ」 「えぇ~、めんどーい。……もういっかなぁ、飽きちゃった。全然先に進まないしさぁ。ドーテーに手取り足取りってシチュエーション、面白そうだなぁと思ってたのに全然そっちの方向に話が進まないんだよねぇ。……ていうか、いっつも上の空? みたいな。超シツレーじゃない? あたしが付き合ってあげてんのにさぁ。デートもさぁ、高校生でももうちょっとイイトコ行くでしょって、バカにしてるとしか思えないんだよねぇ」 「飽きちゃったとか、あんたまだ2週間かそこらでしょ」 「だーってさぁ、つっまんないんだもん」  もう別れよっかなぁと、軽い調子で吐き捨てた彼女の、その一言に何もかもがどうでもよくなってしまった。 「童貞がそんなに悪いかよ……」  用事があって彼女を探していたらとんでもない場面に遭遇してしまったけれど、その不運を嘆くよりも自棄になる方が簡単だった。  フラリと回れ右してカフェスペースを後にしたら、そのまま大学から出てしまう。  フラフラ街を漂って、昼から開けている居酒屋に入った。酒に強くないことは自覚しているけれど、もう何もかもどうでもいい。  親友に裏切られて、大事にしなよと言われて大事にしていたつもりの彼女にすらバカにされていたなんて。 「……そんなに童貞はダメなのかよ……」  カクテル、ビール、ハイボール、ワインとチャンポンして、すっかり酩酊状態だ。  ろくに食べずに飲むなんてあの日の颯真みたいだなと思ったところで、あの日食べたじゃがいもとチーズの味が舌に蘇る。 「旨かったなぁ……稔の作ったやつ……」  パタパタっと音がして、机に水滴が垂れた。  なんだ? と思って下を向いたら、またパタパタと水滴が落ちる。 「……ねぇちょっと。あなた、大丈夫?」  香水のいい匂いがして顔を上げたら、やたらと赤い唇が目に入った。  女の人だと分かっただけで、顔も年も分からなかったけれど、少なくとも彼女達のように自分をからかうつもりはなさそうだと分かったら、しゅるしゅると気が抜けてしまった。 「だいじょぶじゃない……」 「……どこかで休む?」 「……? どこかって?」  稔の家? と思った自分をぶん殴りたかったのに、酔っぱらいすぎて腕が思ったより上がらない。 「……あら、思ったより可愛い顔ね、当たりかも」 「かわいくなんか……」 「お姉さんと、どこかで休憩しない?」 「………………する」  何も考えていなかった。  これから何が起こるのか、分からないほど子供じゃない。  あんな風にバカにされるくらいなら、童貞であることをやめてしまえばいいとか、そこまで考えたわけでもない。ただ、その柔らかそうな体に包まれたかっただけだ。  行きましょ、と腕を引かれてフラフラ立ち上がった。  *****  目が覚めたら安っぽいベッドの上だった。  驚いて飛び起きたら特大の頭痛に見舞われて、ベッドに逆戻りする。 「ぃ……ってぇ……」  なんだ? と首を捻りながら、全身に感じるシーツの滑らかさに気づいた。 「ぇ? っ、ぇぇ!? 裸!? っぃてててて」  全身を眺め回したら裸で、しかも色っぽいような赤い痣まで残っていてあんぐり口が開いた。何も覚えていないけれど、全身運動した後のように体が怠い。  これはもしかして、酒の勢いに任せて誰かとヤッてしまったのだろうか。  脱童貞ってもっと感動的だと思ってたのにまさか何も覚えてないなんて、と脱力する。二日酔いらしい頭痛も相まって、人生で一番の痛みを覚える頭を抱えるしかない。  しかも、相手の女性の姿は既にないときた。 「今何時…………やっべ、ガッコ……ぐぁッ」  ノロノロと顔を巡らせて目に入った時計に度肝を抜かれて飛び起きたのに、結局頭痛でベッドに撃沈した。 「だめだ……無理だ……休むしかねぇ……」  時間も間に合わなければ、授業に出られる状態でもない。とにかく身支度を整えて、どうやればいいのか分からないが料金を清算して、家に帰って大人しく寝ていよう。  なるべく頭を揺らさないようにゆっくりと起き上がってスマホを探す。  脱ぎ捨てたズボンのポケットから探り当てたスマホには、彼女からのメッセージが入っていた。 『約束すっぽかすなんて最低。別れましょう』  アッサリしたメッセージに嘲笑が漏れる。  童貞だから別れましょうじゃないのかと呆れながら、返事はせずに連絡先そのものを削除した。

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