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Ⅰ 海の見える町

 「お兄さん、ボタンを押すんですよ」と出入口近くの席に座っていた女性に声をかけられて、志鶴(しづる)は慌てたようにドアの開閉ボタンを押す。すっかり自動ドアの電車に慣れてしまった志鶴は、二十七歳にして初めて電車の「開」ボタンがその役割を果たすところを見た。プシュ、と音がしてドアが開けば、錆びついた駅名標と、その奥に広がっている青い海が志鶴を歓迎する。  東京から新幹線に揺られていくばくか。二本ほど私鉄を乗り継いでたどり着いたのは、海岸沿いにある小さな町。駅のホームから海が見える光景は新鮮で、電車から降りた志鶴は、走り去ってゆく電車を背にしばらくの間ぼんやりと海を眺めていた。  駅には改札も自動販売機も何もない。ペンキの剥げたベンチがぽつんと置いてあるばかりだ。人の影も見当たらず、ここで一人佇んでいると、孤島に取り残されたかのような錯覚を覚える。真っ青な空と海の中に、駅が浮いているかのようだ。牧歌的な景色に、少しばかり、呼吸が楽になる。  南丘(みなおか) 志鶴は転勤に伴い、東京からこの町に移り住むことになった。この町は来たことはおろか、転勤の話がでるまでは名前すらも聞いたことがなかった。これから住むことになる住居も今から初対面になる。  志鶴が借りるのは、この町のどこかにあるという一軒家だ。田所という男性が所有している家らしいが、彼は積極的に不動産経営をしているというわけではなく、気まぐれに住まいを必要としている人にその家を貸しているらしい。そもそも田所の本職は不動産屋ではなく魚屋らしいので、本当にただ、たまたま所有していた空き家を貸しているだけなのだろう。  地図アプリを使って、田所が経営している魚屋・「田所魚店」を探す。検索してみれば、ちゃんとその店が表示されたのでひとまずホッとしたが、この町は東京と違い目印となるものがほとんどないので、たどり着けるかどうかは怪しい。  しかし、ここで立ち止まっていてもどうしようもない。とりあえず地図は表示できたので、駅を出ることにした。この駅には、エスカレーターはない。重いキャリーケースを持ち上げながら長い階段を降りきったころには、じわりと背に汗をかいていた。  駅のホームを降りると、ぬるりとした風が志鶴の頬を撫ぜた。ああ、潮風だ。そんなことを思いながら、手の甲で軽く額の汗を拭って、再びスマートフォンの画面に目を落とす。当然のことながら、ホームを降りたところで地図がより詳しくなるということはない。本当にたどり着けるのだろうか、とつい志鶴は眉を顰めてしまう。 「――どこか、探してます?」  不意に声が聞こえてきて、顔をあげる。そうすると、そこには一人の青年が立っていた。  ざあ、と波の音が聴こえてくる。また、潮風が吹いてきた。

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