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「ひとまず、動かなくなった時計を見せてもらってもいいですか?」  海はひょこひょことした空気を醸し出しながらも、丁寧にそんなことを言ってきた。切り替えの早さはさすがといったところだろうか。志鶴も特段彼の態度を気にしているわけでもなかったので、何事もなかったように彼を時計のあるリビングまで案内する。 「すみません、まだ部屋が片付いていなくて」 「いえ……大丈夫です」  中途半端に開かれた段ボールを避けながら、志鶴は海を時計の前まで連れて行った。そうすれば、海は顔を寄せてじっと時計の観察を始める。 「まだ、動かなくなったばかりですか?」 「見ただけで、わかるんですか?」 「……勘のようなものです。長い間止まってしまっていた時計は、なんとなく、その周りも止まって見えてしまって。この時計からは、そういったものを感じないんです」 「――……。ふうん。俺のじゃないから、わからないですけども」 「あ、そっか。田所さんのでしたね」  時計を調べ始めた海の横顔を見つめる。その瞳に、何が見えているのだろう。  「少し時間がかかるので、違うことをしていてもいいですよ」、と海が声をかけてきた。志鶴としても片づけの続きをやりたいところだったが、なんとなくこのまま海を見ていたかったので、そのまま彼の隣に座って作業を観察していた。見つめられていたら緊張してしまうだろうか、とも思ったが、彼は顔色を変えることもなく、もくもくと作業をこなしてゆく。  窓の外、紅かった空が少しずつ闇に塗られてゆく。部屋の中も暗くなってきた。空間の彩りが変化すると、音もなく、時が進んでいることを実感する。広い世界の片隅の、たった一つの時計が動きを止めたところで、この世の時間は止まることがない。そんなことを、考える。 「暗くなってきましたね」  手元が暗いと作業がしづらいだろうと、部屋の明かりをつけてやろうと思った。志鶴は立ち上がり、部屋の入り口に設置されているスイッチのもとまで歩いてゆく。  スイッチに触れ、電気を付けようとする。しかしその刹那に、不意に彼に問を投げかけたくなって、手を止めた。 「秋嶋さん――時計って、止まったままではいけないものなんですか?」  「え」と呟いて、海は振り返った。暗くて彼の表情はよく見えないが、瞳が揺れているのがわかる。  なぜ、そんなことを訊いてしまったのだろう。志鶴はわからなかった。動かなくなった時計、止まってしまった時間――何かが、心に触れたような気がしたのだ。触れられて、反射的に言葉がでてきてしまった。 「……、時計は、……止まってしまったら、早めに診てもらったほうがいいです。止まってから時間が経つと、中の部品がだめになって、修理費が高額になることがありますから……。止めたまま放っておくのは、あまりおすすめしません」 「……そ。わかった」  しかし、帰ってきたのは模範解答だった。時計屋としては、当然の回答だろう。聞きたかったのはこの答えではないような気がしたが、かえって安心した。衝動のままに投げかけた問に望んでいたものは、自分でもよくわかっていなかったから。  志鶴は黙って部屋の明かりをつける。「ありがとうございます」と言われて、「うん」とだけ返しておいた。   

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