海は、千恵が元恋人だった男から受けた暴力の末に産まれた子だという。 　千恵は高校を卒業した頃からひとりの男と付き合っていたが、その男は千恵に日常的に暴力を振るっていた。千恵は、所謂ＤＶを受けていたのである。しかし千恵は、男のことを妄信的に愛し、いつか優しい彼に戻るだろうと信じて疑わなかった。 　男は千恵の妊娠が発覚した瞬間、千恵を捨てて行方をくらませた。千恵は絶望に打ちひしがれたが、そのときは男が残した子供を守るため、生きるため、実家に戻り、疲れ果てた心と体の養生をすることにした。 　男から解放されてから時間が経ってくると、千恵は目が覚めたように男に対して強い憎悪を抱くようになる。しかし、そのころには身籠った子供は中絶ができない段階まで成長していた。千恵は憎しみを抱く男の子供が自分の腹の中にいることを悍ましく思い、何度も自殺を試みる。しかし、それは両親に涙ながらに止められ、命はとりとめた。 　それでも、子供への憎悪は変わらない。 　――子供を産んだら、その子供を殺そうと思った。 　養子に出すわけでもなく、施設に預けるわけでもなく、千恵は子供を殺すことしか頭になかった。いつしか、自分の人生を狂わせた男へ抱いていたはずの憎悪が、子供に向いてしまっていたのである。子供を産んだらこの憎しみをすべてぶつけて、今度こそ、親の目を盗んで命を絶つのだと、そう決めていた。 　しかし――子供が産まれた瞬間、その感情が狂う。 『……かわいいって、思った。きっと、産まれたら憎んじゃうだろうなって思っていたのに……産まれてきて、私の指を掴んで、笑ったあなたが――……かわいくて、たまらなかったの』 　産まれてくる子供の名前を、決めていなかった。どうせ、すぐに殺してしまうのだからと、そう思っていた。しかし、産まれた子供と会ってから、千恵はずっと、子供にどんな名前をつけようかと、そればかりで頭がいっぱいになっていた。 『病院を退院してから、ぶらっと一人で散歩に出たの。そして、ぼんやり、何時間も海を眺めていた。……気付いたら、わんわん泣いちゃってた。あなたと会ってからずっと、私は自分が怖くてたまらなかった。こんなにもかわいいあなたのことを、憎い、ってずっと思っていて、怖いことも考えていたから。だから、本当に私はこのまま、何事もなかったように生きていていいのかなって悩んでいた。ひとときでもあなたの命を奪おうと考えていた私のことを、神様はきっと許してくれないってそう思っていた。でも……あの海を見ていたら、全部、許してもらえたような気がして……、ううん、きっと許されてはいけないのかもしれないけれど。でも、海があんまりにも広くて大きかったから、……私が生きることくらい、許されてもいいんじゃないかなって思ったの』 　千恵は、子供に「海」と名付けた。広く大きな心を持った、優しい子であれますように。もしも自分自身を許せない人とあなたが出逢ったら、その人が、自分を許せますように。そんな、願いを込めて。