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 *  夏空は、抜けるように青い。  周囲には、海水浴に訪れた人たちがたくさんいる。そこら中から笑い声が聞こえてきた。 『海、ほら、おいで。一緒にいこう』 『怖い……』 『大丈夫! お母さんが手を繋いでいてあげるから!』  (うみ)に初めて行ったのは、まだ年端もいかない幼い頃だった。幼い(かい)にとっては小さな波すらも膝の高さまであるので、なかなか(うみ)に近づけないでいた。そのため、千恵が海の手を引いて、一緒に波打ち際まで歩いていってくれた。 『ねーえ、(かい)。これが、(うみ)だよ。(かい)の名前と、同じ』  「(かい)」という名前は「(うみ)」からとった、ということは何度か聞いたことがあった。しかし、実際に(うみ)を見るのは初めてだった。写真やテレビで見たことはあったのだが、こうして実物を見たことはなかったのである。  (うみ)は思ったよりも広大で、目が回るほどに深いブルーだった。怖い、と思ってしまうほどに。大きくて大きくて、思わず脚が竦んでしまう。 『お母さん、どうして僕の名前は(うみ)と同じなの?』 『ん~、(うみ)っておっきいでしょ。(うみ)みたいにおっきな心を持っていてほしいなあって。そして、みんなを幸せにできるような、優しくてかっこいい大人になってほしいなあって』 『ふ~ん?』  (うみ)のように広い心を持った、優しい人。  幼い(かい)には少し難しい話だったが、なんとなくは意味を理解することができた。この(うみ)のように大きな人。毎日疲れて帰ってくる母も幸せにできるくらいに、優しい人。きっと、千恵はそんな大人になってほしいのだと――そう思った。  千恵に手を引かれて、(かい)はようやく(うみ)に入っていった。あまり深いところにはいけないので、海岸近くの浅い場所に。夏の日差しに冷たい海水は気持ちよくて、どろどろとした砂の感触が面白くて、初めての(うみ)(かい)は興奮してしまった。  (うみ)に慣れてくると、そっと千恵が手を放す。(かい)もすっかり(うみ)が気に入ったので、しばらく千恵と一緒にはしゃいでいた。 『――あっ』  突然、少しだけ高い波がやってくる。千恵は(かい)の手を掴むのに間に合わず、(かい)は足をとられてそのままバシャンと転んでしりもちをついてしまった。 『海、大丈夫?』  痛みは特になく、あるとしたら突然視界が回ったことによる驚きだろうか。(かい)はぽかんと呆けた顔で心配そうに覗き込んでくる千恵の顔を見上げる。その顔があまりにもまぬけだったからだろうか、千恵はぷっと吹き出し、やがて声をあげて大笑いしてしまった。 『……っ、ふふっ……あははっ、(かい)、ほんと、大丈夫? あはははっ!』  見上げたその先にいたのは、真っ青な大空の下、太陽に照らされて笑う母。長い髪の毛がさらさらと潮風に靡き、麦わら帽子に添えられた花飾りがひらひらとそよいでいる。  千恵が手を差し出してきたので、(かい)はその手を掴む。楽しそうに笑う彼女に、胸が躍る。  ――これは、いつの記憶だろう。遠い遠い昔。「海」という漢字も書けなかった、幼き日の思い出。  知らなかった。(かい)という名に込められた本当の意味を。あの日に理解することもできなかった。今までも理解するつもりもなかった。そんな余裕はなかった。  (うみ)のように、優しくて強い大人になってほしい。その裏側にあったのは、あたりまえのように健やかに大人になって、幸せな未来を生きてほしいという願い。ただの母親として、子供に捧げたささやかな祈りだった。  ただ彼女の笑顔を見ただけで、それに気付いた。気付くことができた。記憶の中のその笑顔を見ただけで。今までも、何度も何度も母の笑顔を見てきたのに、彼女の祈りに気付いたのは――たった今、この瞬間だった。手繰り寄せた記憶をなぞった、この夢の中。自ら被った呪縛からようやく解放された夜、息吹をあげたこの日、はじめて見た美しき夢で。

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