41 / 81
2
*
「よっ……と、」
一か月ほど前に志鶴の家から預かった柱時計が、ようやく修理を終えた。それを志鶴のもとに届けるべく、海は店から車へと、時計を運ぶ。
空はすでに暗くなり始めている。この時計を届けたら、そのまま志鶴の家に泊まるつもりでいた。
「あ! お疲れ~! 海!」
「お母さん」
車に時計を乗せたところで、海に声をかける者があった。ロングコートを身にまとった、痩身の女性。千恵――海の母である。
「これから仕事?」
「うん。海もそれ、届けにいくの?」
「ああ~、うん、そうだね。時計届けにいく」
「ふふ、がんばってね」
千恵は夜にはスナックで働いている。そのため夕方になると、こうして仕事をしながら、出勤する彼女を見送ることが多い。ただ、海は普段、営業時間の終了間際に配達に行くということはないため、千恵はそんな海を不思議に思ったらしい。「こんな時間に珍しいね」と首をかしげながら言われたので、海は苦笑いをするしかなかった。
「そういえば、おじいちゃんから聞いた?」
「何を?」
「留学の話」
「えっ、おじいちゃん留学するの⁉」
「違う違う、おじいちゃん何歳だと思ってるの。海が、だよ」
「……はあ?」
海はあまりにも突拍子もない話に、つい大きな声を出してしまう。「留学」の「りゅ」の字も聞いたことがないし、そもそも希望した覚えもない。全く話が読めなかったので、どう反応すればいいのかもわからなかった。
「海外のブランド時計会社のインターンシップ& 語学の授業を受けられるプログラムだよ。おじいちゃんが見つけてきたの。海、せっかく腕がいいんだから、留学してさらに腕を磨いて、都会の大きな時計会社にいけばいいんじゃないって、おじいちゃんが」
「……いや、僕はこの店の店主だよ?」
「まあ、そうだけど。でも、居酒屋のバイトを兼任してまでこの時計屋で働くのも、なんかあれじゃない?」
「うっ……儲けがないのは事実だけど。でも、僕が出ていったら、この時計屋は……!」
祖父が海に留学を勧めたのは、もっともな話である。
実は、海は時計屋の店主をする傍らで、居酒屋でアルバイトをしていた。時計屋の収入があまりないからだ。残念ながらこの町では、時計屋の仕事などほとんどないのである。もちろん、たまに田所のように時計の修理を依頼してくる者もいるが、時計はそう毎日何個も壊れたりはしない。また、販売に関しても、秋嶋時計店で扱っている高級な時計よりも、スーパーの片隅に打っている安い時計のほうがずっと需要がある。
実のところ、同居している祖父・幸次郎が若い頃に大儲けをしていてその蓄えがあるため、生活に困っているわけではない。そのため、アルバイトをしてまで海が稼ぐ必要はないのだが、そこは成人した男のプライドとして、せめて同年代の平均年収は稼ぎたいという気持ちがある。ただ、家族の言い分としては、そこまでしてこの時計屋で働く意味はないだろうということなのだ。稼ぎたいなら、稼げる仕事で稼いでこいと。
秋嶋時計店は、幸次郎がはじめた店だ。仕事に成功して得た大金を使ってはじめた趣味に近い店だったが、長い時間をこの時計屋と共に過ごしてきた。幸次郎にとって、大切な店だった。しかし、幸次郎も歳には勝てず、泣く泣く七十五歳を超えた頃、店をたたもうとした。そこで手を挙げたのが、海だった。幸次郎がこの店をずっと大切にしてきたことを知っていたので、潰したくなかったのである。
「海がいやなら無理には勧めないと思うよ? でも、留学したから絶対都会で働かなくちゃいけないってわけじゃないし、するだけしてみてもいいんじゃない? 若いんだから、経験値稼がないと!」
「……いや、大丈夫だよ。僕は……」
海は千恵の話を聞いて、疲れたように笑う。留学の話には、全く食指が動かなかったのだ。それを、彼女には知られたくなかった。
それというのも、留学に興味がないのは、幸次郎の店を守りたいからではなく、そこまで時計に興味がないからだ。幸運にも時計の技術者としての腕は持っていたのでここまでやってくることができたが、幸次郎のように時計に愛を持っているわけではない。そもそも秋嶋時計店の店主をやっているのだって、時計が好きだからではなく、幸次郎のためだ。
時計に興味がない、なんて知られたら、千恵も、特に幸次郎はがっかりするだろう。だから、留学の話にどう反応すればいいのか、迷ったのである。
「そ! まあ、私は海が家にいてくれるのが嬉しいからいいんだけどね。あっ、でもいい人ができたら出ていくんだよ、私のことはいいからね。彼女ができたらお母さんに報告するんだよ! じゃ、私、仕事行ってくるね~!」
「あ、は~い。いってらっしゃい」
千恵がくるくると踊るように歩いて去っていってしまう。海はそんな彼女の後姿を見守りながら、はは、と笑う。嵐が去ったような気分だ。
いい人……なんとなく千恵の言葉を反芻して、ぽっと志鶴の顔を思い浮かべる。そしてすぐに「ちがうちがう」とぷるぷる頭を振る。彼には抱いてもらっているだけで、「いい人」と言われて紹介するような仲ではない――そう思っているので、咄嗟に志鶴のことを考えてしまった自分を恨めしく思ったのだ。
雑念に駆られてぼんやりとしてしまったが、ふと時計を見れば予定の時間が近づいてきていた。海は慌てて車に乗り込み、志鶴の家に向かったのだった。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!