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*  暗くなり始めた頃、志鶴は秋嶋時計店にたどり着いた。秋嶋時計店は海の近くにある集落の一角にある、小さな時計屋だった。店はガラス張りになっており、外からも中の様子をうかがうことができる。外壁は少々古さを感じるが、窓ガラスは綺麗に磨かれており、大切にされてきた店だということが見て取れた。特に印象的なのは、店内一杯に陳列されている時計だ。壁一面の掛け時計、いくつも並んでいるショーケース。まるでこの店の中だけが違う世界のようで、思わず志鶴は立ち止まって中を覗いてしまっていた。  奥にあるカウンターに海の姿が見えたが、こちらには気づいていない。閉店間際の時間だからか、締めの作業をやっているようだ。こんな時間に来ることになってしまい申し訳なく思いつつも、そっと扉を押して店の中に入ってみる。 「――いらっしゃいま……、えっ、志鶴さん⁉」 「どうも」  カランカランと鳴った古めかしいベルの音で、海は顔を上げた。海は驚いたようで、ばさ、と手に持っていたバインダーを落とす。思った以上に大げさな反応をされたので志鶴は苦笑いを返した。 「どうしたんですか、びっくりしました」 「いや、時計の電池交換をお願いしたくて」 「電池ですか? りょ、了解で~す……」  わふわふと子犬のように志鶴に近づいてきた海は、ぱっと見てわかるほどに頬を赤くしていた。動揺するとこうなるのか……と冷静に彼を見つめながら、志鶴は腕時計を外して彼に手渡す。  海は時計を受け取ると、にまにまと不思議な笑みを浮かべた。 「どうしたの?」 「いえ……なんか、こういう普通の? 場面で志鶴さんとお話するのがなんかこそばゆいというか……」 「べつにいつも、そういうことして終わりってわけでもないじゃん。ご飯とか一緒に食べたりしてるでしょ?」 「そ、そうですけど~……」  ここのところ、海の態度が変わってきたな、と志鶴は感じていた。喜怒哀楽がわかりやすくなったように思う。彼の素なのか、はたまた特別感情が昂っているのかは志鶴の知るところではないが、小動物を見ているようで可愛らしいと感じていた。 「まあ、よろしく頼むよ」 「あ、はい……わっ」  つい、海の頭に手を伸ばしてしまう。本当は無性に唇を奪いたい気分になったが、さすがに店内でキスをするのは憚られる。くしゃくしゃと頭を撫でてやると、海はきゅーっとこみ上げるような笑顔を浮かべた。  ふと、さきほど海の母親と会ったことを思い返した。何の話をしたのか、と聞かれても困るので、それを言うつもりはなかったが。彼女の言葉を受けた後では、こうして見る海の笑顔が特別なものに思えてくる。 「……志鶴さん?」 「あ、ごめん」  いつまでも黙り込んだまま頭を撫で続けていたからだろうか、海が不思議そうに瞳を揺らがせて見つめてくる。すっかり髪の毛がぐしゃぐしゃになってしまっていて、志鶴は慌てて手を放した。髪の毛を手櫛で直してやると、海がくすぐったそうにはにかむ。 「……じゃあ、電池交換してきますね」  ひょこひょことした様子で海は志鶴に背を向けて、店の奥へ向かっていった。その後ろ姿が愛らしくて、それはまるで彼の母親が願った姿のよう。  なぜか、胸が痛くなる。

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