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*  すっかり日が暮れて、あたりには真っ暗になる。もう営業時間は終了したはずの秋嶋時計店の作業場には灯りがともっており、机の上には海が突っ伏していた。その傍らには、少し前に依頼を受けていた時計が、作業途中のまま置いてある。  志鶴が店を出ていってから約二時間。海は心の整理がつかず、気を紛らわすために仕事を続けていた。修理を頼まれていた腕時計があり、それを直していたのである。しかし、途中からどうしても志鶴のことを考えてしまって気が滅入り、作業ができなくなってしまったのだった。 「……」  言いすぎてしまったような気がするが、だからといって彼という人間の本質を見て見ぬふりをして今の関係を続けるのは違う――海はそう思っていた。彼の時を止めたままで、それに甘んじて彼の傍に居続けることなど、誰の救いにもならないからだ。今までは彼の言動に違和感を抱いていても、彼との関係を続けるために気付かないふりをしてきた。しかし、今は――もう、それができない。彼から感じるがらんどうの虚しさがあまりにも哀しくて放っておけない、彼の心が知りたい――その気持ちのほうが強い。  しかし、どうすればよかったのか。それが、わからない。 「――海。どうしたんだ、こんな時間まで」 「……!」  突然声をかけられて、海はビクッと大げさに肩を震わせて飛び起きた。声がした方に視線をやれば、そこには杖をついた幸次郎が立っていた。 「戻ってくるのが遅いから、何かあったのかと思ったぞ」 「おじいちゃん……」  海の祖父母は、秋嶋時計店のすぐ隣にある家に住んでいる。海と千恵もその家で生活をしているため、幸次郎は夜遅くになっても家に戻ってこない海を心配したのだった。  幸次郎は杖をこつこつと突きながら、作業場に入ってくる。そして、ちらっと作業途中の時計を見下ろせば、ぐしゃぐしゃと海の頭を撫でてきた。 「なんかあったんか」 「えっ」 「全く集中できていないようだったからな。それにいつも、こんな時間まで時計を弄っていることなんてないだろう」  海は顔をあげると、じ、と幸次郎を見つめる。   海から見た幸次郎は一言で言えばガンコな人である。笑顔はあまり見せなくて、いつも気難しそうな顔をしている。しかし、人や物は大切にする人であり、他の人よりもずっと細かいところまで見ている。言ってしまえば職人という言葉をそのまま人間にしたような人だ。 そんな人なので、幸次郎には何も誤魔化しがきかない。図星をつかれてしまえば、そこから逃げることなどできなくて、海はあきらめて、ぽつぽつと言葉を紡ぎだす。 「……時間が、止まった人がいるんだ」 「時間が止まった人?」 「その人と話していると、変な気分になるんだ。その人は、自分のことなんてどうでもよくて……人にばかり優しくする。優しすぎるから変だなって思っていたんだけど……あの人は、時間が止まっているんだ。今を生きているように見えない。だって、人のことばかりを気にするだけで、自分自身は……なんにも感じていないように見える。……そういう人が、いるんだけど。その人に僕がおせっかいを焼いちゃったっていうのかな。余計なことっていうか。ひどいことを言っちゃった。今のあなたはいやだ、みたいなこと」 「――……」  海は幸次郎にまっすぐに見つめられるのに耐えられなくなり、途中で放り投げていた時計の修理を再開する。思い出せば出すほどに、先ほどの自分の言葉が酷いもののように思えてきてしまって、むしゃくしゃした。 「オレは時が止まることはないと海に教えたはずだと思うが……まるで、千恵みたいなことを言うんだな、海は」 「お母さん?」 「千恵もそういうことを言っていた」  海は幸次郎の言葉を聞いて、「あ」と思う。幸次郎は昔から、「時が止まることはない」とずっと海に言ってきたのだ。そのため、つい「時間が止まった人」の話をしてしまい、しまった、と思ったのである。  「時間が止まる」という感覚は、千恵から教えられたものだった。辛い過去を持った千恵が、海を愛することによって時間を取り戻したと……本人から何度も言い聞かされた。海が時が止まったものがなんとなくわかるようになったのも、千恵の言葉があったからだろう。「時間が止まる」という感覚自体は海だけが持つものではあるが、その概念は千恵から受け継いだといってもよい。 「千恵が昔、何があったのかは……聞いているんだよな」 「……うん」 「……海が生まれる前……千恵がオレに言ったんだ。「時計なんて止まっちゃえばいい。私の時間は動いていないから」って。まあ~大変だった大変だった。オレがあげた大切な時計まで壊しやがって。でも……叱れるわけがねぇよな。オレも、千恵のことを考えたら、時が止まることはあるのかもなんて思っちまったくらいだ」  幸次郎の話を聞きながら、海は千恵から聞いた話を思い出していた。最近はすっかり千恵のことで悩むことは少なくなったが、改めて思い出すとやはり少しだけ傷つく。千恵がひどい目にあったという事実も、千恵が海が生まれることを望んでいなかったという事実も、そのどちらとも。  海が暗い顔をしたからだろうか、幸次郎がまた海の頭を撫でてくる。 「千恵も辛かっただろうし、海も辛かっただろう。海も千恵から話を聞いてたまげたんじゃないのか? そこまで正直に言うかって」 「……まあ、それなりに……」 「いやあ、それなりじゃないだろ。オレは千恵から、海に全部言ったって聞いた時はびっくらこいたね。そんなこと子供に言っちゃだめだろって。でも、千恵も言ったことを後悔しているみてぇでな。オレからは何にも言えなかったよ」 「……後悔? してるの?」 「あいつの話を聞いてから海が少しぎこちないの、あいつは気付いているからな」 「えっ……」 「……けど、そんなことを気にするこたぁねえ。誰だって人と人なら一回くらい衝突するもんだ。オレだって女房とひでえ喧嘩を何回もしている」  千恵には悟られないように気を付けていたはずだったのに気付かれていた、という事実に、海は愕然とする。そして結局千恵があの話をしたことを後悔しているということも。  海はいろんなことで頭がいっぱいになって、きん、と頭が痛くなるのを感じた。時計の修理作業をしていた手も、結局、止まってしまう。 「あのな。……時間は、止まらねえんだ。何かを解決したって、また次の問題がやってくる。時間が止まったんじゃない、時間が動いているのに気付けないだけだ。目を逸らしているだけだ。生きている限り、時間は止まらないんだ」 「……時間が止まるのと、動いているのに気付けないのは何が違うの。変わらないじゃん……身動きがとれないのは、同じでしょ」  色々と考えてぐるぐると回る頭に、幸次郎の話は難しかった。海は拗ねたように幸次郎に尋ねる。  幸次郎はハハッと笑って、また海の頭を撫でた。 「海が気にしている奴ってぇのは……まさか生きている人なんだろう。それなら、おまえがそいつの時間が止まっているように見えている時だって、そいつの時間は動いているんだ。おまえと一緒に居た時間のことは、ちゃんと覚えている」 「……覚えていても、あの人はなんにも感じていないよ……」 「覚えているならいいだろ。それに、なにも感じていないなんて……それは本人しかわからないことだ。海はちゃんとその人と話をしたのか」 「それはっ……」  思わず、海は大声をあげてしまった。そして、幸次郎の言いたいことがわかってしまった。  本当に、彼は全くなにも感じていなかったのだろうか。今まで彼と過ごしてきた日々の中で、彼は――何一つ、心を動かすことはなかったと、言い切れるのだろうか。あのとき――志鶴は、傷ついたような顔をしていなかったか。あの読めない表情は、あの言葉に傷ついていた――そうではないのか。時間が止まっているように見えるからといって、彼は何も感じないと決めつけて――彼の心を知りたいと思っていながら、彼の心を見ようとなんてしていなかったのではないか。 「……海、おまえの感覚は間違っていないんだ。時間が止まっているように見える……本人が時間が動いていることに気付かなければ、それは本人にとっては止まっているんだからな。千恵が自分の時間を止まっているって言ったのだって、そうだからだ」 「……、」 「千恵が全部話したなら、これも言っていただろう。「海が傍にいたから、私の時間がまた動きだした」って。ちゃんと、時間は動いているんだよ。本人の気付かないところでも、おまえの目に見えないところでも、止まってなんかいないんだ。だから千恵は、おまえと一緒にいて、幸せになれたんだろ。千恵にとっては止まっている時間の中でも、おまえと一緒にいる時間に何かを感じていたんだ。……おまえが気にしているその人も、時が動いていることに気付けなくなっちまった人かもしれない。それに苦しんでいる人かもしれない。だからこそ、おまえが……傍にいてやらないとなんじゃないのか」 「――……ッ」  ぼろ、と海の目から涙が零れる。  志鶴の時間は、止まっているのだと思っていた。志鶴は何も感じていないのだと思っていた。きっと、本人だってそのつもりでいたのだろう。  しかし、彼の心臓は動いていた。彼は海の言葉を聞くことができていたし、海の体の熱を感じることもできていた。彼にとって、あの時間は本当に無価値なものだったのだろうか。  そんなはずはない。今まで彼と過ごしてきた日々の中で、彼は些細な表情を見せていなかっただろうか。彼が海の言葉に怒ったというなら、傷ついたというなら、彼はちゃんと何かを感じていたということではないのか。そんな簡単な事実にさえ、海は気付くことができないでいた。海自身も、勘違いしていたからだ。時は、止まってしまうものなのだと。時が止まってしまった人間は、心臓まで止まってしまっているのではないかと。 「……志鶴さんと……少し、話をしてくる……」  がた、と海は立ち上がる。しかし幸次郎はその肩を掴んで、再び海を座らせた。えっ、と顔をあげる海に、幸次郎はティッシュを差し出してくる。 「おまえ男だろう。そんな泣きっつらで話をつけにいくんじゃねえよ」 「う……」  それはそのとおりだ、と海はティッシュを受け取って、涙を拭いたり鼻をかんだりし始めた。幸次郎はそんな海と、傍らにある時計を見て、ふっと笑う。 「――時計はいいだろう。時計は時を動かす力も止める力もねぇが、時を刻む力がある。ずっと時間が動き続けている人間に、一生寄り添っていくことができる、宝物なんだ」

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