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夜の海は、少し冷たい。海と空が溶け合って、どこまでも続いている闇がそこにある。轟々と立つ波の音が雄々しくて、飲み込まれてしまいそうだ。
志鶴は堤防まで来ていた。たどり着いて、しばらくぼんやりと海を眺めていたが、やがてポケットから懐中時計を取り出す。ここに、時計を投げ捨ててしまおうと思ったのだ。後悔や未練も何もかもを一緒に時計と一緒に投げ捨てて、ほんの一瞬でも迷うことのないようにしようと思っていた。
しかし、志鶴が腕を振りかぶった瞬間に、電話が鳴った。反射的にポケットからスマートフォンを取り出せば、画面には海の名前が表示されていた。志鶴は一瞬出るのをためらったが、ひどいことを言ってしまったことは謝りたかったので、一旦振りかぶった腕を下ろし、電話に出る。
「……はい」
『志鶴さん?』
「……うん」
静かな海の声が聞こえてきた。
海と電話をしたことはない。いつも、メッセージを軽くやりとりするくらいで、電話をすることはなかった。だから、こうして電話越しに聞く彼の声は新鮮に思う。温かいような、くすぐったいような声に、ため息が漏れそうになる。
『あの……さっきは、すみませんでした。一方的に色々言っちゃって……。いつも、志鶴さんは僕のことを思って色々してくれているのに、ひどいことを言ってごめんなさい』
「ううん……俺の方こそ、ごめん」
海の声に混じって、風の音が聞こえてくる。てっきり家の中にいるものだと思っていたが、外にいるのだろうか。どこにいるのか、と訊こうと思ったが、そうすればあちらからも同じことを訊き返されそうだったのでやめた。海の家とこの堤防の距離は近い。志鶴が堤防にいるとわかれば、海はここに来るだろう。もう一度海に会えば、また彼と一緒に過ごしたいと考えてしまいそうになる。
『志鶴さん。また、志鶴さんと会いたいです。セックスをしたいんじゃなくて、もっと志鶴さんとお話がしたいです。僕は、志鶴さんのことをなんにもわかっていなかった』
「……俺は、……もう、きみには会いたくない」
『……僕のことは、嫌いになっちゃいましたか』
「――ううん、好きになった」
電話の奥で、海が息を呑んだのがわかった。
言葉にすると、すとんと心地よく胸に落ちるような心地がした。今まで、ろくに口にしたこともない言葉だったが、案外口に馴染む。本当は彼と恋がしてみたかったし、彼と愛し合ってみたかったんだな、と思うと、ばからしくて笑えてきてしまった。大切な人の、大切な人を奪った男が人を愛していいなんて思えない。あの日死ぬべきだった自分が、まるで普通の人のように恋をしている事実に、志鶴は吐き気を覚えた。
「俺は……今までも、きみのように辛そうな人に、きみにしたことと同じようなことをしていた。俺は昔、父親を殺しているんだ。故意ではなかったけど、事実として。だから、罪を償おうとしているわけではないけれど、無意識に、辛そうな人がいたら、きみにしたようなことをしちゃうんだよね。優しくしちゃう。俺自身がその人に何も思っていなくても、その人が少しでも幸せになれたらいいなって思って、なんでもしてあげちゃう。きみが俺とのセックスを虚しいって言ったのも、だからだと思う。俺はきみを抱いている時、きみのことなんて考えていなかった。自分の、罪ばかり考えていた」
「……」
「――……はずだったんだけど。いざ、それをきみに虚しいって言われると……びっくりするくらい辛くて。今思い返せば、俺はきみと一緒にいる時間が好きだったんだ。きみとの会話も、セックスも、全部覚えている。……そうだな、きみの体の中では、特にまっすぐに伸びた背筋が好きだった。後ろから抱いていたときは、いつも見惚れていたよ。今更だけど。そんなことを思うくらいには、……きみのこと、好きだった」
言いながら、胸のあたりがひりひりとするのを志鶴は感じた。本当はこんなことを海に伝える必要すらもなかったのかもしれないが、せめてもの自分への弔いとして、どうしても言いたくなってしまった。恋なんてするとは思っていなかったが、この感情は捨てるのが辛い感情だと思った。思っていたよりもずっと痛いし、愛おしい。
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