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「海、好きだったよ」
『――志鶴さん』
いい歳のくせに、恋情に煽られて鼻をつんと痛めた自分が情けなくて、笑いそうになった。もう、電話を切ろう――志鶴がそう思ったとき、じゃり、と後ろのほうから砂の擦れる音がした。
『こんなところで、何をしているんですか』
「――……海」
振り向けば、そこには海が立っていた。志鶴が呆気にとられていれば、海が電話を切って近づいてくる。
「電話の奥から波の音がするからまさかって思ってきたんですけど、ここにいたんですね」
「……聞こえてた?」
「今日は少し風の強い夜ですから、波も高いでしょう」
海は淡々と話をしているが……その目には、涙が浮かんでいる。
――幸次郎が、言っていた通りだった。志鶴の中では、ちゃんと時間が進んでいたのだ。それを――海は、志鶴の告白で噛み締めるように理解した。そして、それをわからずに彼を一度は拒絶した自分が情けなくなったのだ。結局は志鶴のことを考えているようで、自分のことばかりを考えていて、彼の怒りを想うと切なさを感じてしまった。
「……ていうか、はじめから外から電話をかけてきたでしょ。どこに行こうと思ってたの?」
「べつに、どこにも行こうとは思っていませんでしたよ。家には家族がいるので、外で電話をかけようとしただけです。そうしたら、波の音が聞こえてきたから……ここにいるのかなって」
「なるほど……」
志鶴は告白した手前、どんな顔を海に向ければいいのかわからず、苦笑いをする。ただ、恋を自覚してから見ると海がどうしても愛おしくて、これ以上彼を見ていたくなくて、もう帰ろうと思った。
はあ、と息を吐く。ここに来た目的を、果たさなければいけない。手のひらにあった懐中時計を握り締めて、そして――それを、思い切り海に向かって投げつける。
「えっ」
突然志鶴が何かを海に投げたので、海は驚いてしまった。志鶴に駆け寄って、「何を投げたんですか」と問いただす。
「――懐中時計」
「なっ……」
「持っているとかえって色々悩んじゃうし、いっそ捨てちゃった方がいいかなって――……って、海、何してるの」
海は無言のまま、靴を脱ぎだした。そして、ズボンをまくりあげて、海に向かって走り出す。
「何してるのは、こっちのセリフだ!」
「……っ、海……! 危ないから、」
海が時計を拾いに行こうとしていることは、すぐにわかった。しかし思い切り投げた時計は随分と遠くまで飛んでいき、浅瀬とは言い難い場所に落ちてしまった。その位置は波も高く、この暗い中進んでいくには危険な場所である。志鶴は海を呼び止めたが、海は構わず海の中に入っていって、時計を探し始めてしまった。
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