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「海……無理だよ、暗くて何も見えないし、」  海は聞こえているのかいないのか、志鶴の声を無視して、懐中時計が落ちたと思われる場所までたどり着く。その場所はすっかり腰の高さまで海水があり、たまにやってくる波に頬をぶたれて息も苦しい。海底など見えるわけもないので、足の感覚で探ってそれらしいものに当たったら潜って拾い上げる、の繰り返しだ。 「おい、海……!」  海の全身がずぶ濡れになる。服が海水を吸って重くなり、どんどん体力がなくなってゆく。はたしてこのあたりに落ちたのかも定かではない中、途方もない作業で気が滅入りそうになる。それでも、海は志鶴の時計を探し出さねば気が済まなかった。  時計には、時を動かす力もなければ止める力もない。しかし、時を刻み続けて、ずっと人に寄り添っている。あの志鶴の懐中時計だって、ずっと立ち止まり続けていた志鶴に寄り添っていてくれた――彼の宝物のはずだった。志鶴の時が止まって見えたように、懐中時計の時も止まって見えていた。それはそうだ。あの懐中時計はずっと志鶴の傍に居たのだから。  海はあの懐中時計にどんな想いが込められているのかなんて知らない。志鶴にとってあの懐中時計が何なのかも、聞いたことがない。それでも、あの懐中時計が志鶴にとっての宝物だと、それは確信している。だから、無謀でも探し続ける。息が上がってきて、辛くなっても、絶対にあきらめたくなんかなかったのだ。 「馬鹿、なんですか、志鶴さん。志鶴さんは、馬鹿ですか……! あの時計は、ずっと志鶴のことを見守ってきた時計なんでしょう。そんなの、何も聞かなくたってわかりますよ……! 志鶴さんがあの時計を大切にしていたことなんて、わかりますよ! 僕だって、志鶴さんのことが好きで――……志鶴さんのこと、ずっと考えていたんですから!」 「海――……」  志鶴はそんな海の姿を眺め、胸が張り裂けそうになった。なぜ、海はここまでしてくれるのだろう。彼は、言っていたはずだ。人に優しくするのは、大人ぶりたいからだ、と。けれど、この海の中で懐中時計を探そうとしている海に、そんな思惑は全く見えない。ただ、志鶴にとって大切な――父と初めて一緒に買ったあの時計を、海は探したいだけなのだ。そんな海の姿に、志鶴はじわりと胸の中の氷が溶けてゆくような、こみ上げるような熱さを感じてしまう。自分のためにそこまでしてくれる彼に、言葉にならない想いが次々とこみ上げてくる。 「大切な時計なんですよね。だから、あんなに錆びても、ずっと持っていたんでしょう? だから――……捨てても、拾っちゃうんでしょう?」  ぜえぜえと息を切らしながら、海が顔をあげる。そこには、渋い顔をした志鶴がいた。志鶴も海の傍まで、この海の中を歩いてきたのである。 「違う、海がガンコそうだから、あの時計を見つけるまではずっとここで探し続けるのかなって思ったから、俺も来ただけだよ」 「そうですか、じゃあ、はやく見つけましょう」 「そうですかって……絶対わかってないだろ」  捨てても、拾う――それを言われて、志鶴は何も言い返せなかった。あの時計を捨てたのは、これで二度目だ。父が亡くなったあの日、捨てて。その時も結局は拾って。海に投げ捨てて。また――拾おうとして。海がいつまでもこの海の中を探すのを見ていられなかったというのは嘘ではないが、ここでまた拾えるのかもしれないと思うとほっとしている自分がいる。投げ捨てた瞬間の後悔を、海に感じ取られたのかと焦ったくらいだ。  自分は何をやっているのだろう、と志鶴はずぶ濡れになりながら思う。自分の人生なんて諦めていたし、芽生えた恋心だって摘み取ろうとしたばかりだというのに、必死になって海と一緒に自ら捨てた時計を探したりして。息苦しいし、口の中は海水で塩辛いし、今すぐにでも陸にあがりたいのに、あの時計を探し出さなければと叫ぶ自分が心の奥に居る。  父は、こんな自分を見て何を想うのだろうか。母は、未だに足掻いているこの姿を、どう思うのだろうか。いろんなことを考える。償いきれない罪に、押しつぶされそうになる。それでも、諦めきれなくて、時計を探そうとすればするほどに海と一緒に過ごした日々に色がついていって、この気持ちがなんなのかもわからないままにもがき続けて。  あの時計を一緒に買って、嬉しそうにしていた父が。息子である自分に、何を願っていたのだろうと――そんなことを、考えてしまって。

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