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「――志鶴さん!」  振り向けば、そこには満面の笑みを浮かべる海がいた。  ああ、知らなかった。今宵は――星が、綺麗な夜なんだ。  空に散る星屑と、まぶしい笑顔の海。そしてその手におさまっている、錆びた懐中時計。次第に滲み始めた視界の中に、万華鏡のように光が乱反射して、くらくらする。 「時計……ありましたよ、志鶴さん!」  綺麗だ――そう思ったのは、なぜだろう。今更のように満天の星空に気付いたのは、なぜだろう。  ――彼に、恋をしているからだ。  自分の罪に恐れて、自分の心を殺してきた。人として在るための心を、必死に捨ててきた。そんな努力も無碍にしてしまうほど、今、志鶴は海に恋をしてしまっていた。どうしようもなく愛おしくて、彼がいる世界が美しく見えてしまって、その想いを無視することがもうできない。  海と、一緒に居たい。愛しい彼と、これからも一緒に居たい。生きたい。彼のいる世界で、これからも。どうか、その想いを許してほしい。  顔も海水でずぶ濡れだから、泣いても気付かれないだろうか。いや、こんなにぼろぼろと情けなく泣いていたら、流石に気付かれるだろう。ほら、海も困ったように笑っている。  あふれた想いは愛おしさと、それから、罪とか罰とかそれよりも強く揺れた、生きたいという力と。父が護ってくれたこの命が、ようやく息をし始めた、そんな感覚がして、嗚咽がこみ上げる。誰でもない誰かを言い訳に生きていたような命が、初めて、自らの意思で生きたいと、この瞬間に叫んだのだ。 「……海、」  海は志鶴に近づいてきて、そして、懐中時計を差し出してくる。ゆっくりと、志鶴がそれを受け取ると、海は濡れた志鶴の目じりを指でぬぐって、微笑んだ。 「志鶴さん。僕も、志鶴さんのことが好きです」 「――……、」 「ずっと――好きでした。これからも、好きでいさせてください。志鶴さん」  懐中時計を握り締める。  亡くなってしまった父に謝ることは二度とできないだろう。父を失った母の哀しみを癒すことなどできやしないだろう。過去が消えることも、罪が消えることもない。だからこそ捨てたはずの人生を、もう一度歩んでいきたいと思った。誰に許されるわけでもなく、自分自身を許せるようになるために。 「海――……」  一歩、踏み出す。濡れた海の前髪を掻き分けて、そっと頬を撫でる。彼の肌はずいぶんと冷えてしまっていて、きゅ、と胸が痛くなる。 「……好きだ、海」  言葉もなく唇を重ね、時間を忘れたように何度も何度も角度を変えながら彼の熱を感じる。抱きしめたその体は温かくて、どこまでも愛おしかった。

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