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*  ――二人の、男女の声が聞こえてくる。  ここは――俺の家だ。そして、リビングに座っているのは、父と母。二人はなぜか、俺が覚えている姿よりもずっと若い。 『ねえ、あなた。ちゃんと考えているの。私、候補を十個も考えたんだから。ほら、まずは辰美でしょ、これはね、心も体も美しい竜みたいに生きて欲しいって意味ね。で、次は聡ね。これは読んで字のごとく、聡明な子に育って欲しいって……。ちょっとあなた、何、その呆れた顔。わかった、子供はひとりなんだから願いもひとつに絞れよって思っているんでしょう。顔にそう書いてある。仕方ないでしょう、初めての子供なんだから。いろんな幸せのかたちを考えてあげたくなっちゃう!』  父は黙ったまま母の話を聞いている。二人の会話の調子は、俺が知っているとおりだ。母が寡黙な父の思考を(勝手に)読み取って、そしてなぜか会話が続いていく。今は……俺の名前を、考えているのだろうか。 『……子供の名前は、もう決まっている』 『え⁉』  父は珍しく口を開いた。そして、すっと一枚の紙を母に手渡す。  母は唖然とした顔で、その紙を広げた。しかし、そんな母の気持ちはわかる。巨大な半紙に、でかでかと毛筆で「志鶴」と書いてあるのだから。まだ候補をあげていくという段階で、そんなに気合をいれて書く必要はあるのだろうか……。 『……なんて読むの?』 『しづるだ』 『……どういう意味?』 『――力強く、どこまでも……自由に飛んでいってほしい』  ――この光景は、なんなのだろう。俺が生まれる前の光景。俺が知るはずもない光景。ただの、意味のない夢だろうか。きっとそうなのだろうけれど。  「ええ~ちょっと、画数が多くて名前を書くときに苦労しない?」そんな風に突っ込む母はやけにリアルで、まるで本当にあった景色のように思えてしまう。笑っている父の表情は――時計を買ってくれた時のような表情で。  もしかしたら、父が見せてくれているのだろうか。そんな都合のいい解釈をしてみたけれど。結局、本当のところなんてわからない。  けれど、そんな(あなた)の願いは、わかったよ。俺は――やっと、自分の意思で飛んで(生きて)いける。  どうか、見守っていてくれませんか。

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