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あなたのお名前なんですか

 驚き目を見開く俺を通り過ぎ、王子様は優雅な足取りで部屋の中心を横切る。そのまま奥まで進み、窓際に立ってからやっとこちらを振り返った。 「扉、閉めてくれると嬉しいかな。騒々しいのは好きじゃない」  王子の言葉には魔法でもかかっているのだろうか。呼ばれた時と同じように身体が勝手に動いて、部屋を密室にしてしまう。手だけを動かして瞬時に、けれど出来る限り音を立てずに扉を閉ざした俺に、王子が微笑む。 「こっち、来ないの?」 「え?」 「部屋の端と端で話すって不思議だなと思って。今ってそういうのが流行っていたりする?」 「へ?流行り……?」 「いつも一人だし、テレビを観ないから流行に疎くて。離れて話すことに何の楽しみがあるのかは知らないけど、それが君の趣向だって言うなら仕方ない」  これは困った。ちょっとばかり状況把握に頭が追いつかない。日頃から頭の回転が速い方ではないけれど、それにしても俺にはこの人が掴めない。  本気で言っているのか冗談なのか、全く見分けがつかないその表情。緩く笑んだ王子の唇は、まるで造り物のように微動だにしなかった。 「あ、あの。あのですね」    俺は、今この瞬間に王子に羽が生えても驚かないと思う。実は人間じゃなく王子で蝶々で、しかも妖精でしたと言われても、なるほどと納得してしまうだろう。  だって、初対面の俺を庇い大勢のサルを蹴散らせ、端と端で話すことを受け入れてしまっているのだから。この人を浮世離れしていると言わないなら、きっと浮世ってやつは俺が思っているより壮大だ。 「なんで俺を助けて……というより先輩は誰……いや、先輩なのか?でもサルたちが敬語で話していたし、俺は一年生だから当然後輩なわけで。だから先輩なんだけど、でも俺を助けてくれた蝶々で」  俺は何を口走っているのだろうか。離れたところに立つ王子が先輩でも蝶々でも、助けてくれたことに変わりはないのに。まず言うべきは「ありがとうございます」なのに。  それでも、混乱して礼を言い忘れてしまった無礼な庶民にも王子様は優しかった。 「昼寝から起きたら君が逃げてきた。だから助けただけ。それと、君が一年生なら先輩で間違いないね。蝶々は……飛んでいたのを見かけてないけど」 「いや、蝶々は先輩で。だから先輩は蝶々で、俺はボスゴリラに追いかけられてて。でもボスゴリラは追いかけないから、いつもサルが走ってて」 「俺が蝶々なの?それで香西がボスゴリラなんだ。確かに、香西はゴリラみたいだね」 「先輩は蝶々です!!ゴリラはゴリラなんです!」  まずい。口が止まらなくて最終的には断言してしまったじゃないか。初対面の男を蝶々なんて呼んだ俺は、きっと頭のおかしい変人扱いに決まっている。  別にそれでも良かったはずなのに。学年が違えば早々会うことはないし、会わなければ忘れてしまうはずだ。こんなにも綺麗な蝶々を俺は忘れないけど、平凡な俺はきっと忘れられてしまう。  だって蝶々は花から花に渡っていく。俺は花じゃないから蝶々の目には留まらない。  こんな偶然の出会いなんて、俺にとっても先輩にとっても、意味のないものなのに。 「そっか……蝶々か。そんな呼び方をされたのは初めてだな」  それもそうだろう。男に向かって蝶々だなんて、頭おかしいのかよって思われるし、言った本人も思っている。  恥ずかしさと悔しさと、少しの残念感。理由なく募るそれから逃げるべく、足を後ろに退けば身体が扉に当たる。  そうだ、俺と先輩は端同士にいたんだった。謎の距離感があったことを忘れていた。 「いいよ。君に呼ばれたって、すぐわかるから便利だし」 「──んあ?」 「なにその声。呼びたいんじゃないの?俺のことを蝶々って」  笑う先輩の身体が揺れる度、光が宙を舞う。同じ制服を着ているのに輝いて見えるのは蝶々だから?それとも王子だから?  きっと、両方だ。この人は蝶々の王子様なんだ。  そう思うと謎の言動もしっくりと心に落ちてくる。  

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