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隙間から逃げるもの

 そんなことを考えていたからか、ものすごく尋音先輩に会いたくなった。あの気の抜けた笑顔を見たら、落ちた気分も少しは上がる気がして。俺は、ポケットから出したスマホで、先輩にメッセージを送る。きっと先輩なら突然押しかけても怒らないだろうけど、一応。  やっぱり「おいで」と返ってきた返事に頬を緩ませ、尋音先輩と会えるのを楽しみに1日の授業を頑張る。時々向けられる鋭い視線や、ひそひそと小声での悪口。それからバカにした嘲笑。気にしないようにしても気になって、その度に由比に励まされて。  そうして、ようやく放課後を向かえた俺は、今日もここに立っている。いつもの部屋でいつも通りのノックをして、いつもと同じように返事がなくても扉を開ける。 「尋音せんぱーい」  声をかけた先には窓の真下の壁に凭れ、片膝を立てて俯く先輩がいる。もう何度も見た光景に足音を殺して近づけば、尋音先輩は静かに寝息を立てていた。  瞼を閉じたままの蝶々と、視線の高さを合わせる。うん、やっぱり蝶々の王子様は今日も美人だ。 「また寝てる……先輩、尋音先輩」  名前を呼んでも起きない。そっと頬を突いても、髪を引っ張っても起きない。よくもここまで熟睡できるものだと内心では呆れるけれど、先輩の寝顔があまりにも綺麗で見惚れた。  もし来たのが俺じゃなく他のやつだったら、襲われても仕方ないと思うぐらいだ。 「先輩、起きないと悪戯しますよ」  眠っているお姫様を起こすには、王子様のキスが効果的らしい。じゃあ、眠っている王子様を起こすには誰のキスが必要なんだろうか。  それはきっと、平凡な凡人で、どこにでもいそうな相手じゃない。俺みたいな『村人B』が王子様にキスなんてしたら、即刻捉えられて絞首刑は間違いないと思う。 「先輩。起きてください」  自分の身の程は分かっている。俺は王子様を起こす為のキスは諦め、片膝を立てて眠る尋音先輩の股の間に膝立ちになり、肩に顔を突っ伏した。柔らかな毛先が太陽の光を浴びて暖かく、そっと目を閉じた。  間違っても抱きつくなんてことはしない。でも、自分から離れることもできない。余計なことは何もせず、傍にいることだけが今の俺にできる最大限だ。 「尋音先輩。起きないと、放って帰っちゃいますよ」  そんなことはできないのに強がって言うと、ふっと先輩の目が開いた。徐々に上がっていく瞼の奥から、色素の薄い瞳が覗く。 「あ、やっと起きました?」 「みたいだね。でも、まだ眠たい」 「昼寝しすぎると夜に眠れなくなりますよ」 「そうなったら、ミィちゃんに電話するから大丈夫」  それは俺が大丈夫じゃないんですが。そんなことは言わない。だって、きっと先輩は眠れなくても俺に電話なんてしてこないだろう。  1人で本を読んで、1人でぼんやりして、1人で時間を過ごす。そこに俺がいる必要はない。本は尋音先輩に利益を与えるけれど、俺は何もあげられないからだ。  そんな鬱々とした感情を、ため息に隠して吐き出す。すると前髪が引っ張られていることに気づいて、思わず顔を上げた。そこにあったのは、俺の前髪を噛むという謎の行動をしている先輩の様子だ。 「あの、先輩は……何、をしてるんでしょう?」  あまりにも謎が深すぎるその行動。何をされているかはわかっているのに、聞かずにはいられなかった。 「ミィちゃんの髪を食べてる」 「……でしょうね。俺が聞きたいのは、その理由なんですけど」 「甘い匂いがしたから。匂いが甘いと、味も甘いのかなと思って。ほら、お菓子って匂いも味も甘いから」 「髪とお菓子を同じ扱いしちゃ駄目だと思うんですが。とにかく、噛むの止めてもらえますか」  よく考えたら、俺は先輩に対面する形でいるわけで。しかも先輩の肩に顔を預けているわけで。すごく。すごくすごく、とにかくすごく密着しているわけで。  いくら寝ている相手とはいえ、自分で何をしてしまったのか。今までの行動が恐ろしくなった俺は、瞬時に身を退こうとした。けれど、どれだけ力を込めても身体が動かない。  それもそのはずだ。尋音先輩の腕が、俺の身体に回っていたのだから。 「尋音先輩、あのっ……」  髪を食べられかけた後は、抱きしめられている。  そんなことは絶対にありえないし、まさかと思うし、やめてくれって願うけれど……尋音先輩は常識の上の上の、そのまた斜め上をスキップしていく人だ。  俺の頭に真っ先に浮かんだのは『先輩は寝ぼけて俺を餌だと思っているのではないか?』という、通常ではありえない予想だった。  

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