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隙間から逃げるもの

「先輩。とにかく、それ外してください」 「それ?それって何のこと?」  尋音先輩が俺の前髪から口を離し、こちらを覗きこむように見てくる。そのあまりの近さに、顔がカッと熱くなったのがわかった。 「腕です!腕、腕!」 「腕?腕ならちゃんと2本あるよ」 「知ってます!じゃなくて、腕を放してほしいって言ってるんです」 「放す?どうして?」  腰の辺りに回っている先輩の腕を、ぺしぺし、と軽く叩く。俺なりに早く放してくれって合図を送ったつもりなのに、尋音先輩は笑って首を傾げるだけだった。 「尋音先輩!」  捕まえた餌を逃がす気のない尋音先輩に対し、少しきつめに名前を呼ぶ。すると何が楽しいのか、にこにこ笑顔にクスクスと笑い声まで足された。  その楽しそうな表情のまま、尋音先輩が呟く。 「ぐるぐる」 「――は?」  ぐるぐる……ぐるぐるって何だ?新しい単語か、それとも何かの専門用語か?もしくはどこかの国の言葉か?!  訳が分からず先輩の顔を見つめると、そこには少しだけ眉を寄せた先輩がいた。怒ってるのでもなくて機嫌が悪いわけでもなくて、何と言うか心配してる……って感じの顔だ。 「尋音先輩、ぐるぐるって何ですか?」 「ミィちゃんの顔。部屋に入ってきた時は嬉しそうだったのに、すぐ悲しそうになって、戸惑って、今は……照れてるのかな?赤いね」 「入ってきた時って……ええ?!本当は最初から見てたんですか?というか、寝たふり?」 「黙っていたら、おはようのキスしてくれるかと思って。でも、残念」  緩く笑った先輩の顔が近づいてくる。あ、と思った時には周りが何も見えなくて、2人の距離はゼロになった。  下唇と肌の境目を、水っぽい何かが撫でる。輪郭を這うように動いた後、軽く歯を立てられた。噛むのではなく食むって感じ。そんなピンポイントを狙ってくるなんて、驚きを通り越して感心してしまった。  普段は不器用なくせにこういう事に関しては、とても器用な尋音先輩に、だ。薄く開いた瞼の向こうで、先輩の睫毛が揺れている。 「ミィちゃん、舌、出して」  俺の下唇を舐めながら尋音先輩が言う。おずおずと目的のモノを差しだせば、すぐに先輩のそれが絡んで、くちゅり、と水音がなった。尋音先輩の舌は少しだけ冷たい。   「……んっ、せん、ぱい」  俺の舌の上で遊んで、柔らかく包んで、口の中を1周してから先輩が出て行く。今までよりもあっさりと離れて行った唇が寂しくて、思わず尖らせてしまった。  それに気づいた尋音先輩が俺の唇に、同じように尖らせたそれで軽く触れる。 「おかしいね。またぐるぐるしてる」  ふふっと笑った先輩が続ける。 「そんなにぐるぐるしてると、迷子になって帰って来れなくなるよ。ミィちゃん」  誰か。  誰か尋音先輩の説明書を作ってくれたら助かるなって考えて、でも俺よりも先輩のことを知っているやつがいると嫌だなと思って。なるほど、これが先輩の言う『ぐるぐる』なのかもしれないって結果にたどり着いた。  どうやら俺は、尋音語を1つ習得したみたいだ。  とにかく、どれだけ頑張ってもすぐには頭が追いつかない俺に、先輩は触れるだけのキスを続ける。唇以外にも、額とか髪とか、鼻とか瞼にまで。  それがくすぐったくて思わず笑うと、先輩の腕の力が強くなった。 「尋音先輩、力が強くてちょっと痛いです」 「でも、こうしてないとミィちゃんが迷子になる」 「ならないですよ。その、何だっけ。ぐるぐるっていうのも、もう大丈夫なんで」 「本当に?もうぐるぐるしてない?」  やっとキスをやめてくれた先輩が、改めて俺の顔を見る。右から左から、上からも下からも。あらゆる角度から見つめられて照れる俺を、尋音先輩は気の済むまで凝視した。 「本当だ。もうぐるぐるは消えて、真っ赤なミィちゃんになってる」 「…………なんだか尋音先輩って、実は結構な意地悪ですよね。普段は優しいのに、時々すごく意地悪になります」 「どうだろうね。岸には常々、優しさが足りないって注意されるけど」  軽く睨みながら見上げる俺と、楽しそうに笑う先輩の視線が交差する。  本当に黙っていたら……いや、黙っていなくても美形な顔は羨ましいの一言に尽きる。せめてどこか1つだけでも崩れていたら良いのに、目も鼻も口も、全てが整っているから卑怯だ。

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