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隙間から逃げるもの

「ところでミィちゃん。今日、この後って時間あったりする?」  一通り笑いあった後、ようやく俺を放してくれた尋音先輩が聞いてくる。放してくれたと言っても、俺はまだ尋音先輩の膝の間に座っていて、俺たちの距離はすごく近い。 「予定はないです。いつも通りの暇人ですよ」 「それは良かった。前に買った荷物が昨日届いたみたいで、良ければ片付けを手伝ってほしい」 「あっ、もう届いたんですね!」 「そう。俺1人だとどこに何を置いていいか分からないし、岸に頼むと小言が多くて」  生活力のない先輩に任せるわけにもいかず、俺は尋音先輩の家を片付けるという重大ミッションを受け入れた。そうと決まれば、学校でこんなことをしている場合じゃない。  場合じゃない……のに。 「ちょっと、尋音先輩……っ、ン」  またまた合わさった唇。間近に見える先輩の目が「もう帰るの?」って訴えてきて、どうしようか迷ってしまう。早く帰るべきだという理性と、もう少しなら良いのではないかって甘えが戦って、俺は尋音先輩を拒むこともできない。  その隙を先輩は絶対に逃さない。 「うわっ!」  腰をグッと引き寄せられ、バランスが崩れたところで押し倒された。やっぱり尋音先輩は俺を床から庇うように、俺と床の間に自分の腕を入れ、ぶつかる衝撃を一身に受ける。  その痛みすら気にせず、尋音先輩が俺を呼ぶ。 「ミィちゃん」  やめてほしい。免疫のない村人に、王子様のキラキラ顔は毒にしかならないのだから。そんな眩しい笑顔で、甘い声で俺を誘惑しないでほしい……のに。   「ねえミィちゃん。少しだけ休憩してから帰ろう?」  持ち前の顔と声を駆使して、ここぞとばかりに俺を唆す尋音先輩。つい頷いてしまいそうになるけれど、そこは意志をしっかりと持ち、首を振った。 「駄目です。休憩は片付けが終わってからです」 「片付けるのは、別に今日じゃなくても構わない」 「手伝ってくれって言ったのは尋音先輩ですよ。それに、家に荷物が積んであったら、嫌じゃないんですか?」 「寝る場所さえあれば、俺は何も困らないから」  そう言われてしまえば返答に困る。最初に誘ってきたのは先輩なのに、その先輩が動こうとしないんだから、どうすることもできない。だから俺は、はあ、演技のため息を吐いて口を尖らせた。  それは先輩に甘すぎることに対してのものであり、言葉にはしないけれど、この状況を少なからず喜んでいることに対してでもあった。 「片付けは今日します。でもまずは片付けの前に、少しだけ休憩を挟みましょう。じゃないと、本当に何も手伝ってくれなさそうだし」 「少しだけ……それって具体的に何時間?せめて5時間はないと、昼寝すらできない」  バカみたいなことを聞いてくるくせに、先輩の顔は真剣すぎた。冗談で言っているのではなく、本気で質問しているのだとわかり、力が抜ける。  俺がどれだけ緊張しても、尋音先輩によってそれは無駄になる。嫌味も冗談も揶揄いも、照れ隠しですら上手く伝わらないのだから、先輩の鈍さはある意味では才能だ。 「世界が尋音先輩ばかりになったら、戦争とかなくなりそう」    俺がそう言うと、先輩はきょとんとした顔で瞬きをした。どうやら意味がわからないみたいだ。 「だって、先輩って喧嘩とかしないし。香西みたいに意味のわからない絡み方しないし、なんだか平和な感じがする」 「俺は無駄な体力を使いたくないだけなんだけどね。ああ、でも、世界中が俺ばかりになったら、食べる物がなくなる。みんな寝て過ごすことになるよ」 「それは困りますね。それならまず、先輩には料理を覚えてもらわなきゃ。ということで、今日は帰ってキッチン周りの片付けですね。やっぱり休憩は片付けの後で!」  半ば強引に俺が立ち上がろうとすれば、先輩の体温は自然と薄れてしまった。それを少し寂しく感じたことに蓋をして、先輩を起こす為の手を差し伸べた……のに。  結果として、尋音先輩が俺の手をとることはなかった。

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