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隙間から逃げるもの

 帰ろうと立ち上がった時に突然鳴り響いた電話。それをとる時の、尋音先輩の躊躇いのなさ。画面に表示された名前を見ることなく、出るのが当然だと言わんばかりの素早さだった。  それなのに自分から電話に出たくせに先輩は何も話さなくて、けれど次第に尋音先輩からは表情が消えていって。時間が過ぎれば過ぎる程、尋音先輩が遠くなっていく気がした。それが怖くて伸ばした手は、先輩に届くことなく宙を切った。 「尋音先輩」  電話している相手を呼ぶなんて、マナー違反だってことは分かっている。けれど俺はどうしても呼ばずにはいられなくて、先輩にこっちを向いてほしくて、でも届かなくて。  俺の手をすり抜けていった先輩は、無表情のまま立っていた。頷くことも相槌をうつこともなく、名前を呼んだ俺を見ることもなく、微笑んでくれることもなく。  ただただ、虚ろな視線でどこかを眺め、じっと立ち尽くして。  そんな風にしてずっと相手の話を聞くばかりだった先輩が、一言だけ告げた「わかりました」という硬い声。うんと年上の岸さんにさえ使わない敬語を、尋音先輩が使った。  その一言を告げただけで、尋音先輩は電話を切ってしまった。 「ミィちゃん」  相手が誰かも分からず、何の電話だったのかも知らず、振り向いてもらえなかった俺を尋音先輩が呼ぶ。俺には応えてくれないのに、なんて酷い人だろう。 「なんですか?」  それでも返事をしてしまう俺を、尋音先輩は一瞬として見てくれない。ぼんやりと宙を見たまま、そのままの姿勢で言うんだ。 「ごめんね、今日は無理になった」  俺が早くと催促しても聞いてくれなかったのに、こうもあっさりと約束をキャンセルしてしまう理由。それは、さっきの電話だろう。相手も内容も教えてくれない電話に違いない。  それを知っているのに何も聞けない俺と、何も言ってくれない尋音先輩と。急に断られただじゃなく、次の約束もできずに俺は1人だけ残された。  さっきまで意味のわからない会話をしていたのが嘘かと思えるぐらい、尋音先輩は教室から綺麗さっぱり姿を消してしまった。俺を振り返ることもせずに。また明日も言ってくれずに、言わせてもらえずに。  俺を残して部屋を出て行った先輩の後ろ姿が、家に帰ってからも忘れられない。尋音先輩の背中なんて何回も見たのに、今日のそれはいつもと全然違っていた。気のせいだと自分に言い聞かせても、すぐに不安になって、寝がえりを打った回数は半端ないと思う。  そんな俺の不安は、的中してしまった。  その翌日から先輩は学校に来なくなった。メッセージを送っても既読にならなくて、勇気を出して電話をしても電波が通じていなくて。  色々と聞きたいことはあるのに、どれも聞けずに数日が経って。  俺は尋音先輩のいない学校で相変わらず『追いかけっこ』を続け、ボスゴリラに文句を言って、今日こそ尋音先輩が来ているかいつもの教室を確認しては落胆する。  スマホの画面を見ては尋音先輩からの返事がなくて、落ち込む。続く嫌がらせなんて気にもならないぐらい、頭が尋音先輩でいっぱいだった。  そんな日々が少し続いた後の週末。もしかしたら尋音の存在すらが夢だったのかと思い始めた俺を、なんとか現実に引き止めてくれた封筒を握る。 「大丈夫、夢じゃない。ちゃんと全部、どれも本当にあったことだ」  手紙に書かれた文字を指でなぞり、そう自分に言い聞かせた。油断すればすぐに落ちてしまう気持ちを、必死に奮い立たせた……とでも言うべきかもしれない。  尋音先輩に会えないまま。声を聞くことができないまま、とうとう、先輩の誕生日パーティーの夜がやって来た。  さすがに主役が不在ってことはないだろうから、久しぶりに先輩と会えることも相まって、緊張が半端ない。  まるで全力疾走した後に何キロも泳いで、歌を熱唱した感じだ。  ドキドキとそわそわと、わくわくの中に隠れる不安と心配が胸を締めつける。

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