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隙間から逃げるもの

 翌朝。意を決して学校に来た俺は、何も入っていない靴箱を通り越して教室へ向かう。持ってきた予備の上履きを履き、深呼吸して開いた扉。騒がしかった室内は、俺を見て一瞬だけ静まり、元の喧騒に戻る。  半ば諦めて見た席には、今日は机と椅子があった。ホッと胸を撫でおろし、鞄を置いて椅子を引く……と、本日最初の攻撃が。 「くっだらねぇ」  椅子には山盛りにされた泥があった。それが糞じゃなくて土なことに感謝すべきか、それともどうやって片付けるべきか、どちらを先に考えようか悩む俺の肩に手が乗る。 「おお、今日も朝から元気だな」 「由比。なぁ、これ、あまりにもくだらなさ過ぎて言葉失うんだけど」 「じゃあ大声で叫ぶ?もっと激しいの希望ー!って」 「叫ばねぇよ。いいから片付けるの手伝って」  教室の後ろにある掃除道具が入ったロッカーから、箒とちりとりを取り出す。ちりとりの方を由比に手渡し、俺は力任せに泥をそれの上へ掃き落とした。汚れた表面はぞうきんで拭い、やっと座れる状態になったのは登校してから10分以上経ってからだ。 「はぁ……なあ由比。これって昨日の放課後にしたと思う?それとも今朝かな?」 「それ知ってどうすんの?見張って捕まえる気か?」 「でも黙認するのは癪だし。一言ガツンと言ったら、やめてくれないかなって」 「柳の一言でやめるぐらいなら、初めからしないと思う」  それもそうだから、俺は黙って机に突っ伏す。視界の端に「消えろ」って落書きを見つけたけれど、もう反応する気力がない。  俺は、今まで何度も喧嘩はしてきた。睨まれたことも文句を言われたことも、それこそ「消えろ」なんて何度も聞いてきた。でもそれは、きちんと顔を合わせてだ。こうして陰でコソコソされたり、見ず知らずのやつから嫌がらせを受けたことはない。  初めて心から人に嫌われた。初めて心から人に恨まれた。  平凡で凡庸で、当たり障りもなく可も不可もない俺が誰かの怒りを買い、誰かを傷つけて悲しませた。  不意に感じる視線は、嫌がらせを受ける俺を憐れむものもある。けれど、多数は違う。今の俺に向けられる感情は、やはり憎悪とかそういった類のものが多い。  これまで平々凡々に生き、誰よりも平和を愛していたはずが、どこで間違ったのか俺は嫌われ者になってしまったらしい。それも、おそらく学校でダントツに1番の。  受け入れたくないその現実に戸惑っていると、後ろから由比が話しかけてくる。 「柳。お前、愛知先輩と関わったこと後悔してんの?」  由比らしくない落ち着いた声。けれど由比らしい心配を滲ませる声。  それに俺は小さく首を振って否定する。 「じゃあそんな自分が悪いですって顔やめなよ」 「今の由比に、俺の顔なんて見えないだろ。後ろにいるのに」 「見えなくても分かる。愛知先輩よりも誰よりも、俺の方が柳を知ってるんだから」 「……そうだな。尋音先輩は、俺のことを深く知ろうとは思わないだろうし。あの人には俺ってどんな風に見えてるんだろう。どんな風に思ってるんだろうな」  尋音先輩への気持ちが報われたいと思えば思うほど、鈍く胸が痛む。もし万が一でも俺のこの想いが叶ったら、俺は自分がすごく卑怯なやつな気がするからだ。  突然に割って入って自分の考えを尋音先輩に押しつけ、元々あった関係を全て断ち切らせた。そのくせ、こうして尋音先輩の傍をキープしている。由比や香西なら仕方ないだろって割り切れるかもしれないけれど、俺には無理だ。  なぜなら、俺は選ぶ側の人間じゃないから。  いつだって選ぶ側の人間は自信に満ち溢れているけれど、選ばれる側は常に必死になものだ。肝心なことをごまかして、気づかれないように気持ちを隠して。正しいことを言っているフリをして、1番近い居心地の良い位置を手に入れて。  それなのに、さらに求めてしまう。尋音先輩も俺と同じ気持ちになってほしいと願うのだから、本当に醜くあさましい。 「俺は、尋音先輩が思ってくれてるほどいい子じゃないのに」  何度となく先輩が褒めてくれた「偉いね」って言葉。それは俺には当てはまらない。俺はちっとも偉くないし、綺麗な先輩の隣に相応しくない。

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