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生誕祭

「グラスが空いたままですよ」  謎の美女の視線が俺からグラス、グラスから俺へと移動する。それを追って見ると、どうやら俺は、いつの間にかジュースを飲み干してしまっていたらしい。 「あ……ありがとう、ございます」 「いいえ」  差し出されたグラスを受け取る。そうすると自然と空のグラスを女の人に渡す形になって、すごく慌てた。こういうのって、普通は男がすべきなのに、俺は何をしてるんだって焦った。 「あの、グラスッ」  咄嗟に返してもらおうと声をかけると、それと同じタイミングでお姉さんが振り返る。 「そこのあなた。ごめんなさい、これをお願い」  女の人が片手を上げると、すぐさま従業員らしき人がやって来てグラスを下げてくれる。それが妙に様になっていて、やっぱりこの人も『上の人』なんだなぁと実感した。  さらに肩身が狭くなってしまった俺に、お姉さんが微笑みかけてくれる。 「高校生?」 「え?」 「どう見ても成人には見えないから。尋音君の友達……かしら?」  友達の後に間があったのは、俺と先輩じゃ釣り合わないって思われているからだろうか。だとしたら、頷くべきではない。  ここで俺が頷けば、先輩の威厳とか品位とか、そういうものを傷つけてしまう気がした。何もかもが完璧な尋音先輩の、足を引っ張りたくない。 「いえ。俺は香西……さんの付き添いで」 「ああ、秦君の友達だったのね」 「しんくん?」 「香西秦君。あなたのお友達の名前でしょう?」  ふわっと微笑んだ顔が誰かに似ていた。でも、俺の周りにこんなに綺麗な女の人はいないから、きっとテレビかどこかで観たことがあるんだと思う。  ドラマかCMか、どこで観たのだろう。思い出せなくて思い出したくて、こっそりと目の前のお姉さんを窺い見る。 「あの、えーっと……」  その人は俺の隣に移動し、壁際に立ちってどこかへ行く様子を見せない。まだ俺に何か用があるのかはわからないけれど、見ず知らずの人と近い距離で無言でいるのは辛くて、俺は会話のきっかけを探そうと頭を巡らせた。   「あの。女優さん、ですか?」 「え?」 「すごく綺麗だなと思って。なんとなく、どこかで見たような……その、俺あんまりドラマとか観なくて、名前が分からなくてすみません」  ぱちぱち、と女の人が瞬きをする度に長い睫毛が動く。その音が聞こえるんじゃないかって思うほど、静かな空間が気まずい。周りは賑やかなのに、俺とこの人の周りだけが無言みたいだった。 「あ、もしもお忍びだったらすみません。俺、黙っておくので好きなだけ休憩してくだされば……ほら、俺の隣だったら、目立たないだろうし」  必死に香西を探して会場の中を見回すけれど、普段は目立つくせに今日に限ってその姿はどこにもなかった。  使えないゴリラを心の中で恨みつつ、そろりと隣の美人を盗み見る。てっきり怒らせたかと思ったのに、その人は意外にも笑ってくれていた。その笑顔はまるで女神のようだ。  尋音先輩が天使なら、この人は女神。きっと2人は、同じ種族だと思う。  そんな女神が、微笑んだまま口を開く。 「秦君にいいお友達ができたみたいで良かった。秦君って、どうも尊大なところがあるでしょ?本当は照れ屋なのに、思っていることと反対のこと言っちゃったり」 「あ、ああ。それはもう慣れたというか……」 「秦君の性格は、お母様にすごく似てるの。でもお顔はお父様似だから、2人の子供なんだなって納得できてね」  くすくすと鳴る彼女の笑い声が、尋音先輩から貰った鈴の音に似ている。今日はさすがに外してきたそれを、まさかこんな場面で聞くとは思えなくて驚いた。 「あ、ごめんなさい。私ったら、1人で喋ってばっかりで」 「いえ。俺も1人で困ってたので助かりました」 「そう言ってもらえると助かるわ。今日はいっぱい食べて、楽しんで帰ってくださいね」  ひとしきり笑い終えた後、その女性は誰かに呼ばれてしまった。歩き出した最初の1歩がすごく軽やかで、まるで羽ばたいたみたいに見えた。どうやら、女神にも羽があるらしい。 「あの、名前……!」  もう会うことはない女の人。別に一目ぼれをしたわけでもないし、友達になれるわけでもない。それなのに思わず聞いてしまうと、振り返ったその人の口が開く。 「私は、あ」  1文字目で途切れた言葉。鈴のような声をかき消したのは、マイクを通した司会者の声で。  司会者のお決まりの挨拶の後、会場に割れんばかりの拍手が響く。明るすぎた照明が落ち、暗くなった部屋で、入り口付近に向けてスポットライトが当たる。  俺を始め、会場にいる誰もが扉に注目する中。  気づいた時には、もう女の人の姿は、どこにもなかった。

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