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生誕祭

 ゆっくりと開いた扉から、今日の主人公が入ってきた。  俺が足をとられそうになった、やたらと毛の長い絨毯を優雅に歩き、俺が入るのを躊躇った扉を目もくれず通り過ぎ、俺が敬遠した会場の中心を横切り。  場内にいる全ての視線を一身に受けたまま、用意された檀上に立つ。  艶のある黒いスーツ、落ち着いた色合いのチェックのネクタイ。ぴかぴかに磨かれた革靴で、その人はみんなの前に堂々と立っていた。  そこに立っているということは、尋音先輩で間違いないのだろう。でも、俺には別人にしか見えない。その理由はとても簡単だ。  あの不思議な色の髪じゃなく、真っ黒なそれ。長くて邪魔なんじゃないかと思っていた前髪は、横に流す形で綺麗にまとめられていた。そんなことをしたら、先輩の綺麗な顔がみんなに見えてしまう。でも尋音先輩に似たこの人は、見られることを平然として受け入れている。  服も髪色も、髪型もいつもと全然違う。けれど俺が1番に違和感を感じたのは、外見にじゃない。そりゃあ髪の色がこれだけ違えばすぐに気づくけれど、何よりも大きな異変はそんな見た目のことじゃない。  見ただけでは分からない変化。尋音先輩と親しくなければ気づかない、小さな違い。でも気づいてしまうと、大きすぎる違い。それは先輩の笑い方だ。  進行に合わせて祝辞が流れ、先輩の挨拶があって、会場にいる全員で乾杯をする。その間も、ずっと俺は先輩を見つめ続けた。  抱いているこの違和感が、早くなくならないかと希望を込めて。それなのに、それはほんの1秒たりとも消えることはない。  部屋に入ってきた時と全く同じ顔で、尋音先輩は笑っていた。  いつもの緩い微笑みでもなく、たまに見せる意地の悪いものでもなく。初めて電車に乗った時やベビーカステラを食べた時、風鈴を渡した時のものでもない。  寸分の違いもなく同じ高さに上がった口角。常に一定の角度で弧を描く瞳。まるで、仮面でも着けているのかと錯覚するぐらい、1度も崩れないそれ。 「今日はお忙しい中お越しいただき、ありがとうございます」  ありきたりな台詞をずっと同じ笑顔で、ずっと同じ声色で言う先輩。  ずっと背筋を伸ばした姿勢で立つ尋音先輩は、常に誰かに囲まれていて自由な蝶々ではない。自分のペースで会話をすることも、ぼんやりして聞き逃すこともない。  相手の話をしっかりと聞いて相槌を打ち、時折頷いては何かを言って。俺のいる場所では尋音先輩の声は聞こえないけれど、先輩と話している人の表情から、尋音先輩が相手を褒めたのは分かった。あの空気を読まない尋音先輩が、誰かを喜ばせるために今は空気を読んでいる。  これが尋音先輩の住む『世界』なのだと思い知る。  今、俺が見ているのは電車に乗れない尋音先輩でもなければ、家事が何もできない尋音先輩じゃない。炊飯器を2つ買おうとして俺に怒られた尋音先輩でもない。  ──ほら、こっちおいで。ミィちゃん。  記憶の図書館に保管されている尋音先輩の声。でも、目の前にいる『尋音先輩にそっくりな人』は俺をそうやって呼ぶことはないだろう。  尋音先輩と顔も声も背も同じなのに、雰囲気が違う。笑顔が違う。あんな人を俺は知らない。あんな人は、俺の好きな尋音先輩じゃない。  そうでも思わなければ、何かが崩れてしまう気がした。  たとえそれが苦し紛れの無意味な行動だったとしても、俺は俺の知っている尋音先輩と、目の前にいる愛知尋音の違いを探すことに必死になった。  探せば探すほど、思い知る。 「尋音先輩は、遠い」

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