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生誕祭

 俺の知っている尋音先輩は、目の前にいる愛知尋音と違って炭酸が飲めない。ノンアルコールだからと勧められても、そのスパークリングワインを飲むことはない。それなのに目の前の『そっくりさん』は、それを美味しそうに飲み、常に笑っている。  どこの国の人かもわからない外人に話しかけられても、戸惑うことなく会話ができている。小太りのおじさんに肩を叩かれても微笑みかけ、綺麗な女の人を褒め、身体に触られてもさりげなく躱す。  目の前の愛知尋音は、相手任せにはしない。相手の好きなようにはさせない。きちんと自分で行動し、自分から動いている。そっちの方が、いつもの尋音先輩よりもずっと『マトモ』だ。  それなのに、俺には魔の前の人がロボットみたいに見えた。尋音先輩そっくりに作られたロボットに。  見慣れない黒髪に、見慣れたピアスはない。ここに俺の知っている尋音先輩はいない。  けれど、どちらが本物かはわからない。  俺が本物だと思っていた尋音先輩が実は偽物で、今、こうして目の前にいる愛知尋音の方が本物だとしたら……。 「……気持ち悪い」  思わず本音が零れる。  同一人物なのに別人と思い込もうとするのは苦しくて辛くて、俺は香西に言われた通りカーテンの裏に隠れた。けれどそれは、視界は遮断してくれても、音までは消してくれない。  俺の知らない先輩を呼ぶ『尋音君』という声。俺の知らない人に、俺が聞いたことのない声色で答える先輩い。その全てを聞きたくなくて、開放されていたベランダへと逃げ込む。  高層階の部屋からの夜景は綺麗なはずなのに、ちっとも見たいとも思わなかった。そんなものを楽しむ余裕はなかった。  手摺についた手を強く握り、深く息を吐き出す。  見つからない香西は諦めて、もう1人で帰ろうと思った。きっと後で散々に嫌味を言われるだろうけれど、こんな状態を見せつけられるよりは数倍もマシだ。  俺はここに、自分で望んで来た。俺なりに覚悟もしていた。けれど実際には周りの視線に怯み、鼻で笑われて悔しくなり、居場所がなくて気配を殺していただけだ。囲まれる尋音先輩に近づくこともできず、声もかけられず、突っ立っていただけだ。  自分勝手にショックを受け、自分勝手に落ち込んだだけ。俺は所詮、その程度の弱い男だ。  そうして情けない自分が嫌になり、1秒たりとも景色を楽しむことなく部屋へと足を進める。すると、その歩みはすぐさま静止させられた。  自分から止まったんじゃない。強引に止められた。 「あ、いたいた!そこの少年」  声をかけられて隣を見れば、全く知らない男がいた。俺が出てきた窓とは別の所からベランダに出たのか、今まで存在に気づかなかった自分に驚く。見覚えのない顔に戸惑っていると、その男は足早に俺の間近まで寄った。 「ね、君さ。愛知家とパイプ持ってるんだな」 「パイプ?」  断言するような訊ね方に、俺は首を傾げた。だって、その意味がわからないからだ。 「何のことか全然わかりません」 「またまた。だってさっき、仲良さそうに話していたでしょ」 「仲良さそう?俺、1度も尋音せ……尋音さんに近づいていないですけど」  きっと男の見間違いだろう。この会場に俺みたいな平凡が他にもいるとは思えないけれど、そうに違いないと思った。そんな俺の考えは半分辺りで半分外れることとなる。 「違う違う。第一候補の方じゃなくて奥様の方。さっき壁際で2人で話してたの、俺ちゃんと見てたから」 「……奥様?」  『第一候補』は尋音先輩のことで間違いないだろう。それじゃあ『奥様』って誰のことだろうか。  不意に脳裏によぎったのは、あの穏やかに笑う綺麗な女性だった。名前を呼びそびれた、優しい女の人。俺が女優なのかと訊ねたら、少し驚いた顔をした女神だ。 「まさか、あの人が尋音先輩の?」 「実の母親ではないけどね。確か後妻の……なんだっけ。名前はど忘れしたけど、とにかく俺にも紹介して!俺、実は愛知の遠い親戚でさぁ。何とかしてお近づきになりたいんだよ」  そう言って男は手を合わせるけれど、正直俺はそれどころじゃない。  だって、あの女の人はどう見ても若い。尋音先輩のお父さんが何歳かは知らないけれど、それにしても結婚するには若すぎる。  かなり多く見積もっても、あの女の人は30代の後半だ。下手をしたら、それよりももっと下かもしれない。 「尋音先輩の新しいお母さん……」  香西は、先輩のお父さんが先に婚約したのは妹の方だって言ってた。尋音先輩が産まれたのは、その後だとも言ってた。  そして、さっきの人は尋音先輩のお母さんの妹で、先に婚約してた人で、婚約破棄をした人で……めちゃくちゃ若くて。駄目だ。頭がパンクしそうになる。  そんな俺の前で、見知らぬ男の人は頼むと頭を下げ続ける。

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