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痛いって、なに

「なあ、さっきからずっと黙ってるけど、俺の話ちゃんと聞いてる?」    男の手が俺の肩に乗る。ぐらぐらと身体が揺さぶられるけれど、俺の意識はそこにはない。  どう見ても若すぎる尋音先輩の新しいお母さん。その人と先に婚約したお父さん。そして、実の妹から婚約者を奪った、正真正銘の尋音先輩のお母さん。  誰か、俺に相関図をくれって心の中で叫んだ。でもその叫びは別の言葉になって口から出た。 「──痛っ!」  男の手が俺の肩を強く掴む。その目はやけに鋭くて、そう言えば話しかけられていたことをやっと思い出したけれど、もう遅い。 「無視すんなよ。はっ、お前もしかして、あの女の愛人とか?そりゃそうだよな、いくら愛知家が資産家とはいえ、自分よりもかなり年上の男と結婚。しかも元嫁は実の姉だし、その息子はもう高校生だし。金目当てとはいえ、オッサン相手じゃ物足りないだろうしな」 「ち、違う俺は」 「けど、義理の息子と大して年の変わらない男に手を出すなんて、あり得ないだろ。それにお前、普通の顔してるけど実はアッチの方が凄いとか?それなら笑える」  アッチって何?凄いって何のこと?  頭の中に疑問符が浮かび、けれど1つも解決しなくて俺はパニックで暴れた。なんとか男の腕から抜け出したくて身を捩るけれど、無駄で。咄嗟に腕を捻り上げてやろうかとも思ったけれど、初対面のやつ相手に躊躇う。  そうして俺がもがいている間も、男の口は動く。俺が聞きたかった、けれど聞けなかった話をどんどんと零す。 「聞けば婚約解消してからずっと消息不明だったんだろ?それが前妻が死んでから数年して突然現れて、さっさと再婚。すっげぇ嬉しかっただろうな。自分の姉が死んでくれたおかげで、その後釜に入れたんだから」 「そんな言い方……」 「お前知ってた?一部では、あの後妻が愛知社長を唆して殺したんじゃないかって噂されてんの。期をみて再婚して、美味しいところ独り占め。あーあ、よくやるよなぁ……泥沼家系って怖い怖い。その上、義理とはいえ跡継ぎ息子の誕生日当日に――」  にやにやと笑いながら、人の家の事情を楽しそうに話す声。いやらしくて汚いそれは、途中で途切れた。  誕生日当日に……から続くはずだった台詞は、何かのぶつかる鈍い音に上書きされる。  ガッという鈍くて重たい音が、男の声をかき消す。  1度だけじゃなく2度、3度と続いた鈍い音に、俺と男は同時に音のする先を見た。 「失礼。随分と楽しそうな話をしていたので、つい興奮してしまいました」  そこはベランダと部屋の境目。室内に背を向けて立っているのは、俺が見ないよう意地になっていた尋音先輩だ。さっきまで大勢の人に囲まれていた先輩が、1人で立っている。   「こちらのことは気にせず続きをどうぞ。誕生日当日に、何ですか?」  流し目をしながら言った先輩の視線が向くのは、先輩自身の腕だった。柱に宛がっていた左手を大きく振りかぶり、コンクリートのそれに叩きつける。  先輩が柱に腕を打ちつけると、ピッ、と赤い水滴がバルコニーの床へと飛ぶ。俺がそれを赤色だと判断できたのは、会場から漏れる電灯の灯りが眩しいからだった。  飛び散った放射状の赤い雫は、地面に4つ。先程飛んだ血が作った模様は、その中でも1番に大きかった。 「続き、聞かせてくださいよ。もっと」  再び促した尋音先輩は、再び腕を叩きつけた。今度の赤は飛び散らず、柱と尋音先輩の腕の辺りでじわり、と滲んだ。白い柱が、尋音先輩の血で染まる。重たい音が、また鳴る。  先輩が柱に腕を打ちつけた時に聞こえた音。それは男の言葉を遮ったものと同じで、ああ、この打撃の音だったんだ……と分かった途端、俺の背中を冷たい何かが走った。  そしてまた、尋音先輩が腕を柱に殴りつける。  腕時計の文字盤のガラスが割れ、透明な破片が宙を舞って。先輩の白い腕から滴り落ちた血が、床へと新たな楕円模様を描く。 「やめてください!」  思わず駆け寄った先で俺は、ようやく掴めた先輩の左腕を持ち上げる。すると、文字盤の割れた腕時計と傷のついた手の甲が見えた。あれほど力任せに柱を殴れば時計は壊れるし、割れたガラスが手を傷つけても当然だ。怪我をしたせいで、ジャケットの中に着ているシャツの袖口まで汚れてしまっている。  傷つき赤く染まった腕を軽く一瞥した先輩が、俺の手を優しく解く。振り払うのではなく、あくまで紳士的に。  けれどその所作とは裏腹に、力は強かった。やっぱり尋音先輩は、笑っていた。

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