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痛いって、なに

「傷がついたみたいですね。服も汚れてしまって……これは困ったな」  のんびりと傷口を見た先輩が言った後、そこを反対の右手で撫でる。指で軽く突いて傷の深さを確認した後は、小さく頷いてから今度は唇に歯を立てた。  隣に立っていれば、尋音先輩の全てが自然と見えてしまう。  血が滲む箇所を触っても平然としていたことも、汚れた指を見ても表情の1つも変えなかったことも。  自分の唇に歯を宛がうところ、それに力を込めていくところ。  血が滲むまで、滲んでも止めないところ。  真っ赤に熟れた唇が歪んで歪んで、また歪んで、やがて肌が裂けた瞬間も。 「尋音先輩!!」  自分の唇を血が出るまで噛んだ先輩を止める。でもそれは遅すぎて、歯が突き破った時の音が耳に入ってきた。  ガリッだったろうか。ブチッだったろうか。確かに耳から頭へと、その音は届いた。  ゆっくりと。見せつけるように自分を傷つけた尋音先輩が、男に向かって微笑んで問いかける。 「次はどこがいいですか?腕、唇……どうせなら頭でもぶつけて、もっと派手に染めてみます?」 「な……何、してんだよ」  乾いた声で呟き、後退る男を尋音先輩は追う。もつれた足で逃げる男に、尋音先輩は静かに、けれど着実に距離を詰めていった。  先輩が前に進む度に、バルコニーの床に赤い水滴が落ちる。それは腕からのものか、唇からのものかは判断がつかない。  でも、ここで先輩を止められるのは、きっと俺だけだ。   「尋音先輩!!!もうやめてください!」  とにかく怖くて、心から尋音先輩が怖すぎて。身体が震える。  ガラスが粉々になるぐらい柱を殴る先輩も、痛みを感じていないのか平然と肌を噛む先輩も怖くて。溢れる恐怖の中で尋音先輩を見上げると、制止した俺を振り返って首を傾げていた。  まるで「どうして止めるの?」って聞かれているみたいに。  自分のとった行動の異常性を、尋音先輩はちっとも理解してくれない。 「尋音先輩。本当に、やめてください」  先輩がまた遠く感じて、俺は尋音先輩を睨みつける勢いで見つめる。もしかしたら、声が震えてしまっていたかもしれない。潤んだ目を見られたもしれない。それでも目をそらさず、真っすぐに尋音先輩だけを見つめ続けた。  やっと静かになったベランダには、突然の奇行に困惑する男と、半泣きの俺。そして、そんな俺たちを相手に喉を震わせて笑う尋音先輩がいる。  先輩はクスクスと本当に楽しそうに笑って、その声が大きくなった。声を抑える為に口元に手を宛てがうと、その血で汚れた唇を隠すのは、やっぱり血で染まった手だ。    汚したのも汚れたのも、どちらも尋音先輩自身がしたこと。自分で自分を傷つけ、先輩はそれでも笑う。 「な……んだよ、これ」  零れた呟きは、俺のものか男のものかわからない。確かなことは、笑い続ける尋音先輩のものではないってことだけ。状況に頭が追いつかない俺たちとは違い、尋音先輩は今を楽しんでいる。 「ああ、つい興奮しすぎて唇を噛んでしまいました。本当に困ったなぁ……」  全く困っているようには聞こえない笑い声。楽しそうに歪む尋音先輩の笑顔。  尋音先輩が出す雰囲気と浮かべる表情に、この先が見えない。見えないから怖くて、怖いから先輩をまた呼んだ。  今度の先輩はそれに応えてはくれなかった。俺から男へ視線を戻し、目線を合わせるように軽く屈む。 「続き。もう聞かせてくれないんですか?」  尋音先輩の一言に男の喉がヒク、と鳴った。

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