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痛いって、なに

 いつもの穏やかな口調で、いつもと違う尋音先輩は硬直している男に向かって続ける。 「ぜひお聞きしたいですね。噂されている内容も、あなたの見聞きしたことも、それからあなたの考察も」 「いや……俺は別に、何も知らなくて」 「ほら、早くしないと誰か来ますよ。そうなればお喋りしている場合ではなくなる」 「場合じゃなくなるって、それはどういう……?」  訊ねた男に、俺も同意見だった。先輩が何を思って言ったのかわからず、疑問だらけだった。そんな俺たちに先輩が教えてくれる。 「血を流している僕を見て、うちの家の者が黙っているとでも思いますか?僕が一言、この傷が酷く痛むと言ったらどうなるか、想像できるでしょう?」  先輩の言葉に男の顔つきが変わった。戸惑いから恐怖になった。 「先ほどおっしゃっていた通り、僕は跡取りの第一候補ですから。血の一滴ですらこの家の所有物なので。あなたはよく口が回る聡明な方のようなので、この意味がわかりますよね?」    コツン、コツン、と靴底を鳴らした先輩が男の真隣に立つ。尋音先輩の腕を掴んでいたはずの俺の手は、いつの間にか自分の身体を包んでいた。  解かれた感覚はないから、自然と俺から離したのだろう。 「……尋音先輩」  俺はとにかく怖くて。自分で自分を傷つけた先輩もだけれど、それにどれほどの効力があるのかを告げる先輩の声が怖かった。  自分を家の物だと言い切った先輩の、表情が怖かった。  どれだけ好きでも、俺は尋音先輩を弱い人だとは思えない。きっと尋音先輩は、ここにいる3人の中で1番強い。だから自分を守った。先輩を止めることを諦めて、自分を庇うことに必死になってしまっていた。  俺の前にいる尋音先輩は、間違いなく『奪う側の人』だった。 「あ、そうだ。話に夢中で、すっかり忘れてた」  わざとらしく思い出したかのように声を上げた先輩が、目を見開いて固まる男のネクタイを掴む。それで唇の傷を拭くと、尋音先輩は何かを確かめるかのように、ネクタイの布地を指で撫でた。  薄暗くてよくは見えないけれど、きっと自分の血をそこに付けたかったのだと思う。先輩が小さく、けれど確かに頷く。  『愛知尋音の血がついたネクタイ』  それにどこまでの価値があるのかはわからないけれど、良い意味ではないと断言できる。  だって、男の方が可哀想になるぐらい怯えているから。自分よりも年下の高校生を怖がっているから、詳しくない俺にだってわかる。  これはきっと、尋音先輩からの嫌がらせだ。 「さきほどご所望されていた愛知家とのパイプ、差し上げました。これで用は済みましたか?」 「は……あ、はぁ、いや……」 「おや、顔色が良くないですね」  はっきりと見えないはずのそれを心配するふりをして、先輩が男に顔を寄せる。尋音先輩の方が背が高いから、自然と前屈みになった。その表情は見えない。  俺の立っている位置からは先輩の後ろ姿しか見えない。あれだけ得意げだった男の顔も、先輩の顔も全ては隠れてしまった。  けれど先輩の次の一言で、それがどんな顔をしているのかは想像がつく。 「早く出て行け」  尋音先輩からの命令に、そそくさと逃げて行った男の気配がなくなり、ベランダに尋音先輩と2人きり残される。  思考も行動もおかしい蝶々を目の前に、俺は立ち竦むしかない。そんな俺に向かって、振り返った蝶々は言った。赤く汚れた腕を伸ばし、血で染まった唇で、でも優しい声で。 「ミィちゃん。怪我、してない?」  蝶々王子は今日も病んでいる。

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