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表と裏

「来るなら前もって教えてくれたら良かったのに」  俺と先輩だけになったベランダで、隠れるように暗闇に紛れた先輩が口を開く。目を凝らさなきゃ見えなったその先で、白い手で俺を誘いながら。 「ミィちゃん。もう少しこっちに来て。そこにいると、中からこっちが見えちゃう」 「あ、はい……って、中に戻らなくていいんですか?」  今日は先輩の誕生日パーティーで、主役は先輩で、尋音先輩がいなきゃ成り立たないはずだ。それなのに先輩は退屈そうな顔をして、ため息を吐いた。 「いいよ別に。指示されたことは既に終えてきたから」 「指示?」 「挨拶まわりとか諸々?喋り過ぎて顎が痛いし、頷きすぎて首も痛い」  大きく首を回した尋音先輩がネクタイを緩めようとして止めた。苦笑した後に鼻で笑って、露わになっている額を指先で掻く。  正直、顎よりも血で滲む唇とか、柱を殴りつけた手の方が痛いと思うのだけど。本人が何も言わないから、とりあえず黙っておくことにした。もしかしたら、あまりの衝撃に、痛みを感じなくなってるんじゃないかと思ったからだ。  俺の推測が当たったのかは分からないけれど、尋音先輩は唇も腕も気にすることなく、ずっと苦笑いのままだ。 「さすがに、今日はまだオンでいないと怒られる」 「オンですか?」 「そう。愛知尋音は成績優秀で品行方正。間違っても髪を奇抜な色に染めたり、服を乱したりしちゃいけない」 「奇抜な色って……それほどでもないと思うのは、俺が見慣れちゃったせいなのかな」  もう慣れてしまった尋音先輩の淡い髪色。俺にとっては『先輩らしい色』も、お坊ちゃまにとっては『考えられない色』らしい。だからわざわざ髪を黒くして、きっちり締めたネクタイもそのままなのだろう。いつ誰に見られても大丈夫なように、常に気を張っていなきゃいけないに違いない。それが今日の先輩に求められることだ。  尋音先輩が苦笑する理由が分かって、俺の顔は沈んだ表情になったんだと思う。先輩が「ごめんね」と小さく呟き、軽く頭を下げたから。 「もっと楽しい場所なら、喜んで誘ったんだけど。こんな場所で、こんな姿でいるなんて、ミィちゃんにだけは見られたくなかったな」 「俺こそ、急に来て迷惑かけてすみません。あの、もちろん時計は弁償しますから」  たとえどれだけ高価な物でも、父さんか兄さんに頭を下げて、お金を借りてでも弁償しようと思った。すると、俺が指差した壊れた腕時計を一瞥した先輩が、それを外す。そして、何も言わずにベランダから投げ捨てた。  暗闇の中に、壊れた時計がキラキラと輝いて落ちていく。咄嗟に柵に走り寄って下を覗くけれど、今いる場所があまりにも高すぎて何も見えない。 「先輩?!」 「ねぇミィちゃん。時計って何のこと?」 「……あ?え?は?」 「俺は時計なんて、初めからつけてなかったけど。ミィちゃんの見間違いじゃないかな?」  緩く笑って首を傾げる尋音先輩。その顔が、その行動が、その雰囲気があまりにも優しくて涙が出そうになった。けれど泣いたら駄目だと、眉間に力を入れてそれを堪える。 「先輩、優しすぎます。そんなに優しいと駄目です」 「人に優しいって言える人こそ、優しい人だと思うよ。だからミィちゃんの方が、俺の何倍も優しい」 「そんなの屁理屈ですよ。やっぱり誰かに優しくできる人が、本当に優しい人です」 「あれ、知らなかった?俺、家事はできないけど屁理屈はすごく得意。でも、こんな時に役立つなら得意で良かった」  先輩の優しさはいつも分かりやすくて、でも絶対に認めない。この人は自分が褒められても、全部軽く受け流してしまう。小さいころから褒められることのなかった尋音先輩は、人からの好意を知らない。 「尋音先輩」  意味もなく呼んだ名前に先輩が俺を見て、緩く笑う。その唇に血が滲んでいるのが見えて、自然と視線を外してしまった。暗くて見えないはずなのに、先輩は俺の異変に気づいてしまう。 「何か言いたそうな顔してる」  背けた顔を覗きこむようにして、尋音先輩が俺を見る。じっと注がれる視線の向こうで、尋音先輩の瞳が「早く言え」と命令しているように俺には思えた。有無を言わさない色だ。 「どうして尋音先輩は、そうやって簡単に自分を傷つけるんですか?前に先輩は痛くないって言ってたけど、痛みを感じない人間なんていないのに」  訊ねた俺に、尋音先輩が答える。 「それがその時点でとるべき最良の手段だから」  とても、冷たい声で。  

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